ここでは、大塩中斎碑 について紹介します。

在所:尊延寺二丁目25-1先

【ポイント】

①.深尾家は、大塩平八郎の支援者である白井家と縁者。

②.才次郎は、守口の洗心洞の門下生となった。

③.天保8年(1837)2月9日平八郎の挙兵に合わせて村民と一緒に参加。

  ※ 向いの畑地は、深尾才次郎の居宅跡(俗称大塩屋敷跡)

【関連写真】

 大塩中齋碑2014_03_28 金只  深尾才次郎旧宅跡2017_01_17 金只  

【補足説明】

①.インターネット情報より

 大塩の乱に参加した深尾治兵衛・才治郎の家のあった通称「正太郎屋敷」跡に建てられている石碑。

 表には「大塩中斎遺跡 俗称大塩屋敷」とあり、裏面には「昭和47年6月21日(1972年) 深尾家建立」とあった。

 大塩平八郎がしばしば当家を訪れているところから「大塩屋敷」と呼ばれたらしい。

②.大塩平八郎と深尾才次郎の関係

 才次郎の叔母の子(たつ)が、大塩平八郎の支援者の一人であった守口の白井孝右衛門の妻であったことから大塩平八郎の洗心洞の門下生となった。大塩の乱では、守口村の191名、般若村(現大阪市旭区)の113名に次ぐ111名の取調べ者を出し、村の大半の家々が関わった大事件となった。

 天保8年(1837)2月9日平八郎の挙兵を知ると直ちに村人を集めて「尊延寺村」と書かれた幟を立てて出発42名が同行し、残りは村の計日にあたった。

 才次郎は、守口あたりで大塩の敗走を知り、大和・初瀬から能登・福浦へと逃亡し、能登で自害した。

【参考情報】

Wikipedia:大塩平八郎の乱

インターネット:大塩の乱(5)・・・深尾才次郎の墓&大塩屋敷跡