ここでは、天保義民碑 について紹介します。
【観光ポイント】
①.
今道市左衛門
【概要説明】
天保の大飢饉{天保4年(1833)~天保10年(1839)}とは、11代将軍・徳川家斉、12代将軍・徳川家慶の時代に大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期に雪が降ったと記録がある)によるものでした。
被害の中心地は全国的でしたが、特に東北、陸奥国・出羽国でした。江戸四大飢饉(寛永・享保・天明・
天保の大飢饉)の一つです。
各地で餓死者を多数出し、救済者は70万人を超え、米価急騰も引き起こし、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発しました。
天保8年(1837)2月に大坂で起った、大塩平八郎の乱の原因にもなりました。特に大坂では毎日約150人~200人を超える餓死者を出していました。
今道市左衛門は大字中宮の義人で、天保の頃、西方寺檀家の百姓だったと言われています。
頑丈な大男で、然も総身機智に溢れ、年貢検見の坪苅などには、常に村に有利なる様、巧みに処置したと言われています。
親に仕えて孝養至らざることなく、その死するや禁野墓地内に丁重に葬って、天保六年(1835)春立派な墓碑を建設しました。
人に親切で犠牲的精神に富み、一丹人に頼まれれば後へは引けぬ質でした。
天保年中兇作の為、百姓困窮し、村方の救助を願い出ましたが許されず、ついに百姓一揆にも及ばんとしました。
事未然に発覚し、主謀者と推定された、数名が召し捕えられました。
市左衛門も床屋で髭を半分剃ったところを、そのまま捕われ信楽の代官所に引き立てられたと言います。
最初は皆、口をつぐんで容易に実を吐きませんでしたが、種々吟味の結果、市左衛門が発頭人たる事分り、彼一人取残されて他の者は釈放されました。
其の後、裁判の結果、如何なる処分を受けたか詳かではありませんが、三年許の後、江戸の某寺に寺男として、住込んでいることが分かりました。私心なき行動を酌量されて、比較的軽罪で済んだと思われます。
之を聞いて中宮に在った息子が、早速江戸まで会いに出かけた所、守口在の市左衛門とのみにて、頑として其の人違いなる事を言い張るので、子息も遂に空しく引上げざるを得なかったと言います。
恐らく市左衛門の義理固い性分から、郷里との関係を絶てば許すという、代官との約束を守って、寂しく江戸に客死したものと思われます。
誠に義人の面目躍如たるものがあります。
禁野・中宮共同墓地にある今道市左衛門の石脾
正面には「天保義民 今道市左衛門之碑」
右側面には「天保年間ノ大飢饉ニ際シ中宮村百姓ノ為メニ殉ス」
背面には「昭和十九年九月一日 国粋同盟総裁 笹川良一
大阪府會議員 寺嶋宗一郎 建之」
と刻まれています。
義民 今道市左衛門は山田村中宮の小作人で、天保時代小作料減免を叫び、地主と戦った結果、庄屋大村三郎次は非常に市左衛門をおそれ、親類に当る せがら木(信楽)太郎左衛門に依頼し、市左衛門を無実の罪で召捕り、遂に所払いの刑に処し、江戸に放逐しました。
今道市左衛門は当時の勇敢な農民闘士でありました