ここでは、宇山東公園 について紹介します

税所:養父丘一丁目10-27

【ポイント】

①.『日本後記』の「斬於河内国植山」とある。

②.牧野公園のアテルイ・モレ塚は首塚、この地は胴塚と伝わるが根拠は不明。

【関連写真】

 西入口の標識(うやまひがしこうえん)2017_09_06 金只  公園全景2017_09_06 金只  

 東入口の案内板2017_09_06 金只  案内板(アテルイ・モレ)2017_09_06 金只

【補足説明】

①.公園内案内板より

 蝦夷の首長阿弓流為らのゆかりについて

 日本の古代国家は平安時代においてもその支配は全国に広がってはおらず東北地方には『えみし』と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。このため朝廷は、彼らを辺境の人々として『蝦夷』の字を当て征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対し激しい抵抗を繰り返し容易には屈しませんでした。延暦21年(802)4月、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷の首長アテルイと副将軍モレが同族5百余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、7月、二人の首長を伴って帰京しました。首長の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、8月、二人の首長は河内国で処刑されました。

(『日本略記』)

 蝦夷の首長の討たれた場所については古くから研究され、この宇山の地がその候補地の一つとしてあげられてきました。その根拠は『日本後記』の「斬於河内国植山」とあるためで、植山は上山に通じ、河内国上山村は元和元年(1615)に宇山村に変わったからです。

 平安時代前に属する遺跡の存在については明らかでありませんが、この宇山の地は蝦夷の首長阿弓流為らのゆかりの地の一つとなっています。

                                                  平成22年(2010)  枚方市