ここでは、宝憧 について紹介します。
在所:九頭神廃寺史跡史跡公園内
【ポイント】
①.宝憧は、宮殿や寺院での儀式の時などに、幡(ハタ)などを掲げる施設
②.6世紀に仏教伝来、7世紀持統天皇時代の文献で確認。
【関連写真】
九頭神廃寺史跡公園説明盤より切出し
【補足説明】
①.現地案内板より
寺院地北西隅から西に約8mの地点で、長辺約120cm、短辺80~90cmの2基の柱穴が、東西方向に並んで発見されました。他に関連する柱穴が見つからなかったことから、2基の柱穴で構成する遺構である宝憧にあたると考えられます。
宝憧とは、宮殿や寺院での儀式の時などに、2本の支柱で竿を立て、幡(はた)などを掲げるための施設で、各地の寺院ではさまざまな箇所で確認されています。九頭神廃寺は、西門や寺院地西方で見つかった豪族居館との位置関係から、西側を強く意識していたと考えられます。北西隅近くで発見されたこの宝憧遺構もその表れでしょう。
①.2016年03月19日 枚方市ボランテアガイド大西氏提供資料より
※ 平成27年度恭仁京跡発掘調査の現地説明会資料より
寺院における宝幢の存在が文献から確認できるのは持統朝の金鍾寺からである。
文献上、宝幢が最も新しく設置されたのは東大寺の大仏殿再興時である。
高さは12丈から4丈1尺とばらつきはあるが5~6丈(15~18m)が多い。
西大寺のように特別な儀式には20基もの宝幢を立てた事例がある。
宝幢の位置は四天王寺や興福寺では廊を取り囲むように4方に配置される。
西大寺では金堂院に6基の記載があり、元興寺は金堂院に属して4基の記述あり。
2碁ある場合は東西と記載と記載されている場合が多く、堂の前面の左右・伽藍全体の前面の左右に置かれた可能性が高い。
恭仁京での宝幢(又は幢旗・・どうき)は元日朝賀の儀式(正月元日に天皇が臣下の賀を受ける儀礼)に立てられる装飾を施した旗竿