ここでは、家康伊賀越えひそみの藪 について紹介します。
在所:星田九丁目38-12
【ポイント】
①.天正10年の明智光秀の謀反の時、堺から伊賀越えで三河への帰途、その日の深夜、一時的に身を潜めた場所と伝わる。
【関連写真】
家康伊賀越えひそみの藪2023_10_23 金只
標柱(伝家康ひそみの藪)2023_10_23 金只
【補足説明】
①.現地案内板(伝家康ひそみの藪)
天正10年(1582)6月2日
織田信長が京都本往時において、明智光秀の反逆によって自害した。
その時、少人数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の危険を感じ即刻、堺を出て本国三河へ帰ることにした。
その日の深夜家康は、この竹やぶにひそみ、村の長の平井氏に連絡して、山城方面に出るため、道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。
平井家では、沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける二人の農民を選出して、無事に道案内の大役を果たさせたといわれている。
【参考情報】
Wikipedia:伊賀越え
インターネット:「伊賀越え」おとなの歴史再入門