ここでは、小休本陣跡(米谷家) について紹介します。

在所:町楠葉一丁目32

【ポイント】

①.角の米谷家は、紀州侯の御小休本陣(オコヤスミホンジン)であった。

②.枚方宿と伏見宿(昼食)の中間に位置するこの場所で休憩。

③.東に向かって樟葉宮表参道が続く。

【関連写真】

 小休本陣跡全景2015_04_29 金只​   現存の米谷家入口2017_03_14 金只   

 交野神社参道側の風景2017_03_14 金只   今に残る北東角の石組2017_03_14 金只   

    小休本陣見取図(米谷家所蔵)2013_05_05 金只         米谷家由来書2013_05_05 金只

 【補足説明】

①.小休本陣と利用記録

  ・昼の休憩と食事を「御休」、宿泊を「御泊」と言いました。

  ・御休記録帳によると1863/06~1865/12の小休回数79回、月平均2.5回で紀州藩以外の利用も多数あった。

②.米谷家由緒書き

 當家は河内國交野郡楠葉村の地に於て代々係を累ね来る舊家にして天保年間米谷友右衛門惟清が書き残せし由緒書に因らば先祖は藤原豊成の次男継縄の後胤にして當村に住したるところ平安時代中期多田満仲谷公に仕え摂津国川邊郡米谷村を賜りて移住し其の後歸住して姓を米谷と改めしものなりと云ふ以後代々清水八幡宮の神職を勤め戦国の世にキリスト教に歸依し禁制となりし後は浄土宗檀家として今日に至りしものなり。

 又江戸期に於ては紀州徳川家の小休止本陣を代々勤め来る由緒ある家柄なり。

 今茲に當家世系をまとめ一幅の系譜を編み氏しは先祖代々の功徳と恩愛を偲び其の鴻恩に感謝せんが為なり。

 宜しく後孫の慈愛に勝るものなく先祖を敬慕すること子孫繁栄の基なること悟り愈心身を修して世界の肴為の人材となりて其の鴻恩に報いるべし。

                                                    子時 平成18年2月吉日  三男・艶子 譜之

③.米谷家の概要・・・以下2016年5月3日米谷三男氏の話より

 -1.米谷家の出目は河内國交野郡楠葉村。

 -2.先祖は、藤原豊成の次男の後胤で現当主で12代目。

 -3.平安中期に多田満仲公に仕え、摂津国川邊郡米谷村を賜り移住。

 -4.其の後歸住して姓を米谷と改めた。

 -5.以後代々清水八幡宮の神職を勤めた。

 -6.江戸期に於ては紀州徳川家の小休止本陣を代々勤めた。

④.米谷家界隈の京街道

 -1.当時、この地に旅籠2~3軒、商い店4~5軒あった。

 -2.鳥羽・伏見の戦いで、北端の船宿木村家以外全て焼失。

 -3.今日街道は、米谷家の前でやや幅広であった。・・・殿様の出入のため

 -4.米谷家から南へ下ったところで大きく鍵の手に右折。

 -5.道沿いの北側に高札場。

 -6.京街道は、旧樟葉駅のところで線路を越えて府道京都守口線との間にあった。

⑤.天保15年2月1日、第11代斉順(ナリユキ)公の廻状からの宿泊記録。 米谷家の書き写しより

 -1.4月3日:大津出立→大宅(オオヤケ)小休→伏見御昼→楠葉小休→枚方泊・・・大宅は山科

 -2.4月4日:枚方出立→守口小休→大阪御昼→住吉小休→助松小休→貝塚泊

⑥.米谷家とキリシタン

 由緒書によると、江戸時代初期、摂津国から帰住の際、キリスト教に帰依とある。

 江戸期、楠葉には「隠れキリシタン」が多くいたと言われてる。このことは、久親恩寺南側あたりに「ゼウス塚」があったことからも想像できる。対岸の摂津国のキリシタン大名高山右近の影響と思われる。