ここでは、意賀美神社 について紹介します。
在所:枚方上之町 2-12
【ポイント】
①.この地域には、4世紀頃、淀川の運行を司る豪族の墳墓(万年山古墳群)があった。
②.推古天皇(600年代摂政は聖徳太子)のとき高麗の僧が来朝し、この地の風光明媚を賞し草庵を営む。
③.平安時代の貞観(ジヨウガン)2年(860)、真言密教の聖宝上人が来て、のちに伽藍を建立。
④.須加神社は、当地あった萬年寺の開祖「聖宝上人」が、牛頭天王社(祇園社)勧請し創建
⑤.意賀美神社は、伊香色雄が、淀川一帯を支配し、邸内に水神を祀ったのがことの始まりと言われている。
・その社がこの宮山に移された時期は不明であるが、延喜式神名帳簿(10世紀初頭)に記載あり。
⑥.明治3年(1870)、神仏分離令により萬年寺は廃寺され、仏像は浄念寺に移された
⑦.明治42年(1909)に、意賀美に日吉神社・須賀神社を合祀し意賀美神社となす。
⑧.明治43年(1910)に、低区配水池(意賀美神社旧地)から当地・須賀神社跡地に遷座。
三社合祀の証は、屋根と燈明の紋章に見ることができる。
⑨.意賀美神社の算額は、枚方市の有形民俗文化財。
⑩.琴平神社:元須加神社の本殿を移築
⑪.第4師団忠魂之碑:砲弾で取り囲んだ忠魂碑
⑫.連理の榊:夫婦和合の信仰
⑬.参集殿の宝物:廃寺萬年寺の神像、日吉神社・須賀神社の遺物、万年寺山からの古写真など
参集殿の見学は事前予約要:072-841-2790
見学料:無料、但し「心づけ」を準備するのが常識。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板より
旧来、当地には須賀神社(三矢村・枚方村・岡村の鎮守社)が鎮座し、今の梅林辺りには万年寺がありました。万年寺は明治初期の神仏分離で廃寺となりました。境内に残る南北期~室町期の石造九重塔が往時の姿を伝えています。
明治25年(1892)、枚方尋常小学校が万年寺跡に移転し、明治37年(1904)、同校運動場拡張工事中に発見されたのが万年寺古墳です。墳形等は不明ですが、主体部は粘土槨(かく)と推定されます。三角縁神獣鏡等の青銅鏡が八面出土しており、淀川流域の水上交通を掌握した豪族が葬られた4世紀前半頃の古墳と考えられます。平静17年には万年寺展望広場から同時期の箱式石棺墓が見つかり、この一帯が一族の墓域であった可能性があります。
明治42年(1899)、伊加賀宮山にあった意賀美神社(伊加賀村・泥町の鎮守社)は、須賀神社と岡村の日吉神社(岡村・岡新町の鎮守社)とを合祀し、当地に遷座しました。
浅田藩(豊中市)の算術家岩田清庵が文久元年(1986)に和算の問と答を描いて奉納した算額(枚方市指定文化財)が伝わります。
2012年3月 枚方市教育委員会
②.祭神は、以下の4柱
・高竉大神(タカオカミノオホカミ) :水の神;淀川の鎮守の神(貴船神社と同じ)←意賀美神社
・素盞鳴大神(スサノヲノオオカミ) :祇園の神、農業の神、厄災病難よけの神←須賀神社
・大山昨大神(オオヤマクイノカミ) :山の神、文化の神、安産の神←日吉神社
・大国主大神(オオクニヌシノオホカミ):国土の神、殖産農業の神←日吉神社
【参考情報】
Wikipedia:延喜式神名帳
意賀美神社
Localwiki :意賀美神社旧地