ここでは、招堤寺内町の成立ち について紹介します。

在所:招堤元町

【ポイント】

①.蓮如上人は、将軍義晴から牧郷の荒地を授けられこの地に道場を開設。

②.六男蓮淳に布教を委ね、津田城主の妹を妻に迎えさせた。

③.織田信長の石山寺攻撃の際は、信長への恭順を唱え、寺内町の焼失は免れた。

④.本能寺の変の後、津田氏と共に光秀に加担したために秀吉から寺内町としての特権を剥奪された。

⑤.一向宗道場は、江戸時代に入って寺院として整理され、敬應寺と呼ばれるようになった。

【補足説明】

①.インターネット:「ふるさと枚方発見」より

 現在の招提元町付近は、浄土真宗の道場(敬応寺)を中心とする寺内町として建設されました。

 将軍足利義晴から河内国牧郷内(カワチノクニマキノゴウナイ)の荒地を授けられ、1543年この地に南北2㎞、東西3㎞の境内の縄張りをして道場の地を定め、一堂を建立しました。そして、蓮如の六男、蓮淳(レンジュ)を招き、津田城の城主の妹を妻とし、姻戚関係ができました。

 この道場を中心に、東の低地に堤を築いて、御堂池(ミドウイケ)とし、周囲に土塁(土居)を築きました。また北から南へ大通りをとおして、各入口に木戸を構え、堂の前の通りから西へ民家を並べることで、招提寺内町が完成しました。その後蓮淳の堂に対して、本願寺の第10代法主・証如(ショウニョ)から本尊の開基仏(カイキブツ)が授けられています。

 しかし、羽柴秀吉と明智光秀との決戦の際、光秀からしきりに誘われていた津田城主正時とともに光秀側に加担したため、敗戦し、後に秀吉によって寺内町としての特権を剥奪され、1582年頃幕を閉じました。なお、敬応寺と称するようになったのは、1621年以降のことです。

 同じ地区の他の町内は、街道に沿って町がほぼ直線的に形成されていますが、招堤地区はそれらとは対照的に、今でも網の目状に入り組んだ細い通りに、入母屋、切妻屋根の家屋が残っております。また、この地区内の路地は、車も行き来ができない程の幅で、行止りや、鍵状に曲がる道とともに、200~300m四方の区画に集落がまとめられています。