ここでは、敬應寺 について紹介します。
【ポイント】
①.将軍足利義晴の在地領主の片岡正久と河端綱久が開村
②.蓮淳がこの地を道場の地と定め一堂を建立。寺内町として発展。
③.織田信長には恭順を示し招堤町は焼失を免れる。
④.その後、明智光秀に加担し、寺内村としての歴史に幕。
⑤.敬應寺と称するようになったのは、元和(ゲンナ)7年(1621)以降、江戸時代に入ってからである。
⑥.浄土真宗寺院の基本的様式(正面に本道、左に鐘楼、右に太鼓櫓)を残す。・・・市内では、光善寺、圓養寺と当寺の3ケ所
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板より
招提村は、浄土真宗の道場(敬応寺(ケイオウジ))を中心とする寺内村として建設されました。
佐々木源氏の流れをくむ在地領主の片岡正久と河端綱久が、将軍足利義晴から河内国牧郷内(カワチノクニマキゴウナイ)の荒地を授けられ、天文(テンブン)12年(1543)この地に、方八町(ホウハッチョウ)の境内の縄張りをおこない、道場の地を定めて一堂を建立し、蓮如(レンニョ)の六男、蓮淳(レンジュン)を招きました。
この道場を中心に、東の低地に堤を築いて、ため池(御堂池(ミドウイケ))とし、周囲に土塁(土居)を築きました。また北から南へ大通りをとおして、各入口に木戸(キド)を構え、堂の前の通りから西へ民家を並べ、招提寺内町は完成しました。そして蓮淳の堂に対して、天文13年に本願寺の第10代法主(ホッス)である証如(ショウニョ)から本尊(ホンゾン)の開基仏(カイキブツ)が授けられました。
その後、豊臣秀吉と明智光秀との決戦の際に光秀側に加担したため、光秀滅亡後、秀吉によって不入の特権を剥奪(ハクダツ)され、天正(テンショウ)10年(1582)頃に寺内村としての歴史の幕を閉じました。
なお、敬應寺と称するようになったのは、元和(ゲンナ)7年(1621)以降のことです。 1998年 枚方市教育委員会