ここでは、星田妙見宮(小松神社) について紹介します。
在所:星田九丁目60-1
【ポイント】
①.祭神
・天之御中主大神(アメノミナカヌシノオオカミ)
・高皇産霊大神(タカミムスビノオオカミ)
・神皇産霊大神(カミムスビノオオカミ)
仏教では、「北辰妙見大菩薩(ホクシンミョウケンダイボサツ)」
陰陽道では、「太上神仙鎮宅霊符神(タジョウシンセンチンタクレイフシン)」
※ 神仏習合時代の名残の多い神社であるが、隕石落下を機に巨岩信仰に始まったと思われる。その証は、北斗七星の降臨伝説(星降る町→星田町の地名)と神体の巨岩である。
※ 東高野街道筋にある交野地区は、高野山参拝客の通り道となることから、弘法大師神話と平安時代の陰陽道思想が隕石落下と関連付けられ、不思議な信仰形態を生み出した。
※ 能勢の妙見さんは、妙見菩薩を本尊とする仏教(日蓮宗)寺院である。
➁.弘法大師の佛眼仏母尊(ブツゲンブツモソン)の秘宝により七曜の星(北斗七星)が交野の地3カ所に降臨し、内一カ所が星田妙見宮との言い伝え。
③.ご神体は巨岩である。
・隕石落下で崩れた山上の巨岩を奇跡と思い、落下隕石として信仰の対象としたのがことの始まりか?
➃.三の鳥居から本殿まで合計217の急峻な階段が続く。
・途中、七曜の星の内四星があったとされる場所に案内板がある。残りは「登り龍の滝」付近とされる。
・87段目に絵馬殿があり、休憩所となっている。
・131段目から「登り龍の滝」への参道が開けている。
・171段目に手洗い所が準備されている。
・191段目に社務所がある。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板(隕石落下)
わが国の隕石落下記録上、二番目に古いとされる弘仁7年(816)の星の降臨によって、この山の大部分が吹き飛ばされ、馬蹄形になっています。山を登りながら、当寺の衝撃のすさまじさ、宇宙の神秘を感じて下さい。
※ 最古の記録は、746年 俗日本紀(日本天文史科下巻 神田茂編)
➁.神社パンフレット(御由緒)
当宮の縁起によりますと平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~823)に、弘法大師が交野へ来られた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、佛眼仏母神の秘宝を唱えられると天上より七曜の星(北斗七星)が三ケ所に分かれて以上に降りました。
現在も、この伝説は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、星田傍示川沿いの星の森、もう一つが星田乾にある隆星山光林寺境内、そしてもう一つがこの当宮であり、現在も降臨したと伝わわる磐座(イワクラ)を影向石(ヨウゴウセキ)(織女石(タナバタセキ))と称してお祀りしいています。
弘法大師は自ら「三光清岩正身の妙見」と称され、「北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳」、「神仏の宝宅諸天善神影来会の名山」としてお祀りされました。
後世には淳和天皇、白川天皇、後醍醐天皇を始め楠木正成、加藤清正など、多くの崇敬を集めたと伝わっています。
③.神社パンフレット(当宮の七夕伝承)
当宮には伝統的な七夕祭祀が伝わっています。
『河内名所図会』には「妙見祠 妙見山にあり、神躯巨石三箇、縣の如く岐ちて、岡の如し、(中略)土人、織女石ともお呼ぶ」とあります。織女石(タチバナセキ)とは七夕の織姫を祀る石ということです。
江戸時代、貝原益軒の『南遊紀行』にも「此谷おくに、星の杜あり、其神は牽牛織姫也。」と当宮もことが記載されています。
当宮を含む現在の交野市、枚方市のあたり一帯は平安時代以前より、羽衣伝承、七夕伝承が伝わり、銀河にたとえられた天野川が流れています。
そして、星や七夕にゆかりのある地名や場所が点在します。
『古今和歌集』には当地、交野ケ腹や在原業平が惟喬親王の狩猟の共をした時には『狩暮し 棚機津女(タナバタツメ)に 宿借らむ 天の河原に 我は来にけり』と詠んだ歌があります。この頃には既に交野ケ原に七夕伝承が定着していたものと思われます。
【参考情報】
Wikipedia:小松神社(交野市)