ここでは、昼神車塚古墳 について紹介します。
【ポイント】
①.前方後円墳
②.6世紀中頃の築造と推定されるが埋葬者不明
③.大阪府道67号線の建設で削平され、道路敷設後出土品を基に復元整備。
【関連写真】
標柱と案内板2021_11_13 金只
標柱(昼神車塚古墳)2021_11_13 金只
案内板(昼神車塚古墳)2021_11_13 金只
復元したハニワ2021_11_13 金只
【補足説明】
①.現地案内板(昼神車塚古墳)より
天神山『ひるがみ山』ともいい、車塚は前方後円墳の俗称である。この古墳は天神山丘陵の南端にあり、同じ丘陵の東縁にある中将塚野見宿禰塚などと一連のもので、この東から南にひろがる豊かな平野を支配した首長たちの墓である。
この車塚古墳は6世紀中ごろまでにつくられたと推定される。およそ全長60m・前方部の幅40m・後縁部の径35mで、前方部は後円部よりやや高くつくられ、新しい特徴をそなえている。
1958年に府道枚方ー亀岡線のバイパスが計画された前方部について、1976年に調査がおこなわれた。現在みる前方部は、トンネル建設のため、いったん掘りあげ、調査結果にもとづいて復旧したものである。
墳丘は丘陵南端につくられた弥生時代の墓地のうえに、高さ約4.5mの盛土をおこなっている。その断面(右図参照)にあらわれた盛土の状況をみると、下半分は台状の核を包むように土を盛り、一度地ならしをしたあと、再び上半部を同様の工程で築いている。そのあとで、上段・中段・下段のテラスをつくり加えている。上段のテラスには人頭大の川原石を敷き、中段のテラスには埴輪を2列にならべていた。それらはあたかも古墳を守るかのように巫女が立ち、また、牙をむき出したイヌたちが、たてがみをふりたててイノシシを追いつめ、そして、角笛を吹いている猟師の姿などに古代の狩りの情景をうかがうことができる。
特に、このように再現したのは、古墳のありし日の姿を知るためと、再びみることのできない祖先の遺産を大切にしたいとねがったからです。
なお、昼神車塚古墳は現在も、上宮天満宮の神域として守り伝えられている。
1980年3月 大阪府教育委員会
【参考情報】
Wikipedia:昼神車塚古墳
インターネット:たかつき歴史Web