ここでは、来雲寺 について紹介します。

在所:枚方市尊延寺5丁目

【ポイント】

①.宗派:高野山真言宗 → 融通念仏宗 → 浄土宗

②.創基は天平時代聖武天皇勅願で宣教大師の創建と伝える旧尊延寺の46院の一つ。

③.大塩平八郎の乱に、深尾才次郎を中心に尊延寺村から14名参加との記録が過去帳に記録。

  ※ 深尾才次郎の墓所は当寺の墓所にある。

④.十三仏像は、冥界の審理を司る仏様(仏陀・菩薩)のことで、この審理が行われる日に法事が行われる風習が室町時代に考えられ、今でも残る。

【関連写真】

 全景2014_03_28 田嶋   山門2014_03_28 田嶋​   

 本堂2014_03_28 田嶋​   十三石仏2014_03_28 田嶋​   

【補足説明】

 当山の創基は天平時代聖武天皇勅願で宣教大師の創建と伝える旧尊延寺の46院の一であったと伝わる。

 その後真言宗となり、貞和3年(1347)融通念仏宗の佐太(現守口市)来迎寺を開山した実尊上人が当寺に留錫し、貞治年間(1362~67)その末寺となった。明治以降に浄土宗に改宗、現在に至っている。

 来雲寺の本堂に「中興 享保5年(1720)法蓮社周誉上人」という浄土宗の位牌があり、『氷室村郷土史』には、天和~正徳(1681~1716)年の頃に同寺が浄土宗に改宗したとあり、この時期(元禄期前後)に旧本堂が建立されたと思われる。

 来雲寺には天保8年(1837)大塩平八郎の乱のとき当尊延寺村から参加し、逃亡先の能登で自害した深尾才次郎と連座して捕えられ、獄死した兄の次兵衛や母のぶの位牌や、旧尊延寺村で大塩事件に関係した村人14名の過去帳が伝えられている。

 また、明治5年(1872)新しい学制制定に伴い当寺には、堺県河内国第6区郷学校分校が置かれた。

                                        [参考資料]『枚方市の社寺建築』 枚方市教育委員会編

 来雲寺は尊延寺の集落の中にある。4m程の道をはさんで厳島神社がある。

 明治初年の神仏分離令が出るまでは、来雲寺と厳島神社は一体であった。

 本堂は元禄時代の終りの頃(1700年の初め頃)に建てられ、文政6年(1823)に再建されている。

 平成3年(1991)に改修工事が行われ、屋根が葺替えられた際、「文政6年再建」の棟札が発見された。

 十三仏石塔は永禄元年(1558)と慶長16年(1612)の銘がある。枚方市内ではこの石塔が唯一とのこと。

【参考情報】

Wikipedia:十三仏・・・法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習