ここでは、枚方の軍事施設 について紹介します。

在所:枚方市御殿山南町・禁野本町2丁目・上野2丁目・中宮北町

 枚方製造所遺構2017_08_01 金只

①.大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠の場所

 ・俗称「禁野(キンヤ)火薬庫」

 ・敷地は、明治29年から3度に渡り拡縮され、昭和15年(1940)142,560㎡

 ・場所は、

   明治29年(1896)の竣工時が大阪府北河内郡牧野村、現在の御殿山南町、禁野本町2。

   昭和14年(1939)頃の最盛期が御殿山南町、禁野本町2に加え上野2、中宮北町。

   昭和15年(1940)頃からは禁野本町2と中宮北町の南半分。

②.大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠の場所

 ・枚方製造所は、枚方分廠の東隣に隣接して設置され、現在の上野3一帯、小松製作所大阪工場、関西外大の敷地にあった。

 ・昭和14年(1939)の爆発事故で拡張は断念

③.施設の概要

 ・大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠

   弾体に火薬熔填(詰め込み)作業、弾薬、弾丸、信管の貯蔵及び補給施設でした。

 ・大阪陸軍造兵廠 枚方製造所

   各種砲弾(弾体)の製造(のちに信管、爆薬)。

④.要 目

 ・大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠

  用地:明治29年(1896)、竣工時=217,661㎡

 昭和14年(1939)以降  =410,200㎡

 昭和15年(1940)~終戦 =142,560㎡  

 ・大阪陸軍造兵廠 枚方製造所

  用地:1,089,000㎡

  建物:

   第一工場=18,650㎡  第二工場=35,000㎡

   第三工場=26,160㎡  第四工場=?㎡

   第五工場=?㎡    第六工場=18,957㎡

   第七工場=5,400㎡  第八工場=12,089㎡

   天之川工場=9,652㎡

【補足説明】

大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠の歴史

①.明治8年(1875)年頃宇治火薬庫が開設した。

②.明治27年(1894)年3月から用地買収が行われた。

 地理上、大阪がほぼ我が国の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいことから陸軍建設の祖、兵部大輔 大村益次郎永敏の構想により設置が決定し、禁野が同じく淀川水系に位置し、宇治火薬庫と水運で結べ、人家が少なく段丘上にあるため防諜にも適しているということから選定されたと思われる。

③.明治29年(1896)年10月に用地面積217,661㎡、兵器庫2棟を含む約20棟の倉庫からなる「砲兵第二方面本署禁野出張所」(同年、大阪陸軍兵器本廠禁野弾薬庫に改称。砲兵第二方面本署は大坂城内に設置)が竣工した。

④.明治30年(1897)2月からは火薬の格納が開始された。

⑤.明治36年(1903)「大阪陸軍兵器支廠 禁野弾薬庫」と改称する。

⑥.明治37年(1904)、日露戦争勃発。

⑦.明治42年(1909)年8月には建設中も含め約50棟の建物、火薬庫土塁、構内には当時最新の物資運搬用の軽便軌道を敷設した弾薬・火薬庫となった。

⑧.明治42年8月20日、構内西南端の隣接する「第一号誘発鉱山火薬格納倉庫」と「第二号爆発ダイナマイト格納倉庫」がダイナマイトの自然発火により相次いで爆発、施設の大半が倒壊、近隣の家屋約1,495戸が全半壊したものの幸い軽傷者10名と人的被害は少なかった。

 陸軍は爆発事故発生により被害をうけた住民には補償を行い、発生した火薬庫撤去運動には再発防止を誓い説得、施設の復旧を行いつつ周辺の用地買収も進め、明治44年(1911)8月に復旧工事は完了した。

⑨.大正3年(1914)、大正三・四年戦役(第一次世界大戦)勃発。

 大正期には若干の用地買収と施設の新築・移転が行われた。

⑩.昭和5年(1930)、土塁上への植樹した。

⑪.昭和6年(1931)には外周柵を改修、更に敷地外北部、東部の用地を買収し、火薬庫、弾丸庫の増設を進 めた。

⑫.昭和14年(1939)年初頭には敷地面積410,200㎡、建物約100棟の広大な弾薬庫となった。

⑬.昭和11年(1936)「大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫」と改称し、同年、国鉄片町線・津田駅から専用線を建設した。

⑭.昭和12年(1937)、支那事変 勃発。

 東隣に「陸軍造兵廠大阪工廠 枚方製造所」が建設された。

⑮.昭和14年(1939)年3月1日14時40分、十五号未弾庫にて信管離脱作業中に爆発事故が発生、折からの強風に煽られ周辺弾庫が次々に誘爆、火災が発生する大爆発事故となった。

 爆発は14時40分から18時55分までの間、大小29回発生、火災により敷地内の倉庫大半が焼失、さらに周辺の禁野、中宮、渚、磯島、三矢、岡などの集落に延焼し、翌2日午前3時にようやく鎮火したが、死者95名、重軽傷者351名、住宅全焼・全壊836世帯の大惨事となった。

 陸軍は大阪府、大阪市と共同で罹災者の救護、支援を行ないつつ施設の復旧、整備に着手したが、敷地の北側2/3を隣接する枚方製造所に譲渡し、南側の敷地に未填薬弾丸庫、薬莢類倉庫を設置した。

⑯.昭和15年(1940)「大阪陸軍兵器補給廠 枚方分廠」に改変。

⑰.昭和16年(1941)、大東亜戦争 勃発。

⑱.昭和19年(1944)末、米軍による本土空襲が激化すると、保管されていた弾丸、薬莢類を津田町の火薬庫集積所、枚方町、交野町、津田町内の学校、神社、民家に疎開、分散格納した。

⑲.昭和20年(1945)8月15日、終戦とともに枚方分廠は閉鎖され、米軍に接収された。

 大阪陸軍造兵廠 枚方製造所の歴史

①.昭和12年(1937)、支那事変が勃発し増大する砲弾の需要に対応すべく、同年「大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫」に隣接する大阪府北河内郡山田村枚方の用地買収及び工場建設が開始された。

②.昭和13年(1938)年1月「陸軍造兵廠大阪工廠 枚方製造所」が開設された。

③.昭和15年(1940)4月、「大阪陸軍造兵廠 枚方製造所」と改称された。

③.昭和16年(1941)、大東亜戦争 勃発。

④.昭和18年(1943)年7月、大阪市東区杉山町(大坂城北、東側一帯)の「大阪陸軍造兵廠」の第二製造所(砲弾の弾体製造)が工場は従来のままで枚方製造所の管轄になります。

 同年、火薬を用いる信管を製造する第五製造所を大阪市内に置くのは危険であり、また空襲の危険性、弾体製造との一元化による作業効率の良さの面から昭和14年(1939)年に爆発した「大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫」跡地に移転が決定(計画は昭和17年)し、工場建設が開始された。

⑤.昭和19年(1944)年初旬には建物の一部と信管製造設備全ての移転が開始され、3月に完了、信管部品の製造、填薬、組み立てが行われた。

⑥.昭和20年(1945)4月には枚方製造所の管轄に統合された。

⑦.昭和20年(1945)8月15日、終戦とともに枚方製造所は作業を停止、米軍に接収されたが機械類はそのまま放置された。

⑧.昭和27年(1952)枚方市は小松製作所(現:コマツ)に払下げた。

⑨.平成10年(1998)10月敷地南側がコマツから関西外大に売却され現在にいたる。

⑩.製造品目、従業員数(括弧内)

 ・第一工場=高射砲弾(  525)  ・第二工場=戦車砲弾(3,800)

 ・第三工場=爆弾  ( 900)  ・第四工場=工具  (1,200)

 ・第五工場=雷管用爆剤( 800) ・第六工場=信管  (4,000)

 ・第七工場=信管組立(1,250)  ・第八工場=起爆剤製造、填薬(750)

 ・天之川工場=信管部品(750)

 ・全従業員:13,975名、その他補助員:5,000名

 ・プレス2,907台