ここでは、棚倉孫(たなくらひこ)神社 について紹介します。
在所:田辺棚倉49
【ポイント】
①.式内社で、『延期式』神名帖にて大社に列せられた古くは有力神社。
➁.社伝によると、推古天皇31年(623)、相楽郡棚倉から勧請したと云う。
③.祭神は、「天香久山命」
天香久山命は、別名「手栗彦命(たぐりひこ)」または「高倉下(たかくらじ)」とも伝わる。これらが転じて棚倉となったとも云われている。
又、「棚倉」は穀物を収蔵する倉庫、養蚕に用いた棚との説もある。
江戸時代には「天満宮」と呼ばれたいたことから、北野天満宮における瑞饋祭の影響がみられる。・・・瑞饋祭と瑞饋神輿
④.5社相殿
・「寶蓮稲荷大明神」
・「老松殿」「紅梅殿」の相殿
・「天照皇大神宮」「春日大明神」「八幡大菩薩」の相殿
・「多賀神社」
・「稲荷神社」
⑤.絵馬殿
・一般奉納絵画・・・綺麗に保存されているものは写真で紹介
・「升と斗掻き棒」の絵馬・・・米寿(88歳)に無事到着できた感謝の奉納。
⑥.文化財
・棚倉彦神社本殿 京都府登録文化財(桃山時代
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板(松寿院跡)
本寺は天満神社を祀る式内棚倉神社の神宮寺として建てられ、真言宗に属し知積院の管下にあった。設立された年代は明らかでないが、寛文年間(1661~1673)あるいは享保年間(1716~1736)の記録がのこっている。淀城主の鳥居寄進についての古文書に宛名が社僧松寿院ときろくされている。当時は天満宮を松寿院が管理していたことがわかる。
本院は、天保14年(1843)現在のものに建て替えられた。
明治の初期に神仏分離政策によって、本院は廃寺となった。また、安政5年(1858)から明治4年(1871)mで寺子屋として子どもの教育の場に使用され、明治5年の学制発布により田辺小学校開設準備が始まり、その間、本院が田辺小学校の仮校舎として使用され、明治6年5月、田辺小学校校舎が田辺鳥102番地に新築完成と同時に本院は棚倉彦神社の社務所となった。
京田辺市教育委員会
【参考情報】
インターネット:棚倉彦神社