ここでは、標柱(東高野街道) について紹介します。
在所:出屋敷2丁目
【ポイント】
①.平安時代の官道である南海道に遡る。
②.高野聖(弘法大師)の台頭で貴族による高野詣での頻発な往来で賑った。
③.八幡市→洞ヶ峠→高野道→招堤新大池→出屋敷→中宮大池→交野市郡津→茄子作→生駒山地西麓を南下→石川沿い→河内長野。
④.京街道整備までの幹線道路。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板より
高野山参道のために整備された街道であるが、この歴史は古く平安時代の官道である南海道に遡る。南海道は、律令国家体制の崩壊とともに機能を失墜しつつあったが、高野聖の台頭を機に東の高野街道として再び重要視され、平安時代の後期から鎌倉時代の末頃まで貴族による高野詣での頻発な往来で賑った。以後も慶長4年(1601)に京街道が整備されるまで、山城と河内を結ぶ幹線道であった。
その道程は、山城と河内の国境の洞ヶ峠から現在の枚方市域を縦断し、生駒山地西麓を南下、さらに石川沿いを遡り河内長野で堺を起点とする西高野街道と合し、紀見峠超え橋本を経て高野山にいたる。
本市域では、洞ヶ峠から高野道・招堤新大池・出屋敷・中宮大池・交野市郡津を経由して茄子作を通過するが、出屋敷は家並みとともにかっての面影を今に留めており、旧街道に臨む多田家の生垣には、人々の往来を偲ぶように道標がひっそり佇んでいる。 1995年枚方市教育委員会