ここでは、正俊寺 について紹介します。
【ポイント】
①.初代大阪町奉行旗本久貝因幡守正俊(5780石の大身)の菩提寺
②.慶安2年(1649)息子の正世が亡父追善供養のため建立
③.石造十三重塔(嘉暦2年(1327))銘あり)は、1970年大阪府有形文化財に指定。
④.東参道の西国三十三カ所巡り
⑤.久貝家墓所
※ 初代久貝正俊の墓所は、堂山東町にある。
※ 4代久貝正順の墓所は、正俊寺霊園の東南に単独である。
⑥.霊園は、紫陽花園で覆われ、その時期には有料で開放されている。
⑦.八体佛十二支守り本尊が山門脇に。
※ 十三仏像の内、十二支に割り当てられた八体の仏様。
⑧.西参道は、樹木に覆われた庭の中の階段となっている。
【関連写真】
山門と鐘楼2014_08_13 金只
本堂2013_05_21 金只
墓所入口2014_08_13 金只
墓所表示2014_08_13 金只
西国三十三箇所めぐり
紫陽花花園
八体佛
西参道風景
本道前庭風景
【補足説明】
①.現地説明板より
初代大阪町奉行を務めた旗本久貝(クガイ)因幡守正俊(マサトシ)は、交野郡内に知行地を与えられ、荒廃していた長尾村の再開発に着手しましたが、志半ばで病没しました。慶安2年(1649)息男正世(マサヨ)は亡父の追善供養のため、田口村から善福寺を当地に移し、当地に久貝家菩提寺を建立し、同家知行地となった讃良郡中野村(現四条畷市中野)正法寺の釈迦如来像と石造十三塔を移しました。寺号は同家を創開した父親の名を冠して、長尾山正俊寺と命名しました。
本堂左手にある花崗岩の十三塔は、高さ4.3mで、嘉暦(カリャク)2年(1327)の紀年銘が刻まれていました。上部宗輪(ソウリン)の宝珠(ホウジュ)・請花(ウケバナ)を失っているものの、鎌倉時代の造立当初の姿をよく留めており、昭和45年(1970)に大阪府有形文化財に指定されました。
場内には、山門前に久貝家墓所、住職墓域に細谷善兵衛の墓石があります。細谷は福岡村(長尾村の前身)の再開発に尽力し、久貝家長尾陣屋の代官を務めました。 2000年8月 枚方市教育委員会
②.寺院発行パンフレットより
河内(大阪)、山城(京都)、大和(奈良)との境にあり、神のいます山として古代から人々の崇敬を集めた神奈備(カンナビ)の峰から、ゆるやかな起伏をみせて淀川へとひろがる交野ケ原。その麓の浄域に、長尾山と号し、と号し、古刹の法灯を伝える正俊寺(ショウシュンジ)がある。
当寺は、慶安4年(1651)江戸時代、河内領主久貝因幡守正世が、父因幡守正俊を弔う大慈の菩提寺として創建される。佛像や多くの石像物があり、とくに本尊釈迦如来像は、黒佛と称し、石造「十三重石塔」とともに鎌倉期のすぐれた文化財と知られています。古刹の法灯を伝えるにふさわしい「長尾の寺」。この環境にめぐまれ、境内にはマツ、スギ、ツバキ、モミジ等が生い繁り四季折々に参拝者の心に安らぎを与え、又野鳥たちも四季の自然を満喫しているようです。 長尾山 正俊寺
③.細谷善兵衛の墓
細谷善兵衛は正俊の命で福岡村(長尾村の前身)の再開発尽力し、久貝家長尾陣屋の代官を勤めた墓の裏面には
「灰となり煙と成て 影もなし 何もなくも南むあみた仏
心あらば この石とうで たまふなよ
せめて*** のこす*** 寛文六丙午暦 二月五日」
と刻まれているらしいが、風化が進んでおり、よく確認できない。
【参考情報】
Wikipedia:久貝正敏
インターネット:正俊寺紫陽花園
インターネット:八体仏