ここでは、歴史的建造物(小野家) について紹介します。

在所:新町一丁目5-7

【ポイント】

①.当家は、問屋場役人で村年寄りを兼ね、家業は豪農で醤油業を経営し、屋号を「八幡屋」と言われた。

②.建物は、間口8間、・梁行六間もある。居室は2列に6室が配されていて、厨子二階、起屋根、虫籠窓、うだつ、格子窓、出格子、揚げ床几、釣りなどは幕末期のものと思われる。

  当家には、生徳6年(1716)建築の古図鬼瓦がある

③.平成15(2003)枚方宿景観維持助成金で主屋の修復・復元。

④.修復時に階屋根裏から鮒(フナのミイラが見つかり、淀川の大洪水(明治18年)の規模が推定でき

【関連写真】

 小野邸(北側全景)2012_08_19 金只  案内板2013_03_13 金只  

 出格子2013_03_13 金只  揚げ床机2013_03_13 金只  

 釣り蔀2012_08_19 金只  虫籠窓2013_03_13 金只  

 うだつ2012_08_19 金只  リフォームされた東側の住居2021_04_03 金只   

 

【補足説明】

①.現地説明板より

 旧枚方宿 問屋役人    小野平右衛門家 屋号 八幡屋

 東海道枚方宿岡新町の小野家は、江戸中期より村年寄と問屋役人を兼ね、村と宿駅の運営に影響力を行使した。

 当家には、正徳6年(1716)建設の古図と鬼瓦を存するが、現在の建物は幕末期と推定される。

 本建物は、街道に面した広い間口で、表門口には揚見世(バッタリ床机・揚げ床机とも言う)と下げ戸が現存し、曽って醤油業を兼ねていた町屋の遺構を残している。

 尚、近年の主屋改修において、明治18年6月の淀川洪水による軒先浸水時の鮒がミイラとなって屋根裏で発見された。

                                          平成3年8月 宿場町を考える会

②.町屋の特徴

 1).出格子;牛馬の家屋への接触防止。目隠しと防犯の役目を兼ねる。

 2).揚げ床机(揚見世);商品陳列台・涼み台として活用の一方、大名行列時には揚げて道路を広く使う工夫。

 3).吊り蔀(半蔀);揚げ床机と合わせて、雨戸の役目を兼ね防犯の役目をする。

 4).虫籠窓;物置として使う2階の風通しの役目。

 5).うだつ;元々は軒下を走る火焔防止、後には、権威の象徴となってきた。

③.補足説明・・・ガイドの会ガイドブックより

 小野家には享保元年(1716 =将軍吉宗)の古い図面と鬼瓦が保存されているそうですが、現在の建物は幕末の頃のものと推定されます。

 建物の大きさは、間口 8間(14.522m)梁行6間(10.908m) 居室 2列6室で、農業経営の傍ら醤油業を営み、幕末には豪農となりました。

 屋号を八幡屋と言い、岡新町村の年寄と枚方宿の問屋役人を勤めました。

 小野家の建物の街道側の一部は、揚見世と半蔀(ハジトミ)の組合せになっていて、醤油業の面影を今に伝えています。揚見世(揚げ床机)は枚方では「ばったり」とも呼び、昼の間は軒先に下ろして商品を並べ、夕方には商品を室内に取り入れ、揚見世をしまいました。夏の昼の間は涼み台として使われることもあったようです。また、半蔀((上半分)を外に揚げるようにし、下ははめ込みになった蔀)は寝殿造邸宅の仕切りにも利用され、源氏物語夕顔の場面にも出てくることは承知のとおりです。今も半蔀と揚見世が遺されているのは大変貴重だと思います。

 また、街道に面した2階の屋根は低くて、虫籠のような格子ががありますが、これを虫籠窓(ムシコマドと呼び、江戸時代の町屋の一つの特徴で、時代が古いほど、低くなっています。

 小野家は豪農で醤油業も営んでいただけあって、奥行きが深く、枚方宿内では貴重な町屋の一つで、平成15年(2003)枚方宿歴史的景観維持助成金を受け修復・復元されています。

 なお平成15年の修復のおり、屋根庇裏から鮒のミイラが発見されました。この鮒は明治18年6月淀川大洪水(天野川も決壊)の時に屋根裏まで流されてきたものと分かり、今も小野家に大切に保存されています。

 ※ 淀川決壊時の決壊場所水深 5.5m

④.小野家について・・・東海道 枚方宿と淀川(中島三佳著)より

 小野家は、享保20年(1735)の「河州茨田郡岡新町村俛割名前帳」によると、持高2石7斗2升であった。

 その後、農業経営の傍ら余業に醤油業を営むなどして、土地の集積をすすめ幕末期には豪農となる。

 天保9年には、岡新町村年寄と枚方宿問屋役人を兼ねる。元治元年より庄屋に昇進する。

 当家には、正徳6年(1716)建築の古図と鬼瓦が現存するが、現在の建物は幕末期と推定される。

 本建物は、街道に面した広い間口で主屋は間口八間・梁行六間もある。居室は2列に6室が配されている。表間口には揚見世と半蔀の組み合わせがが現存し、曽って醤油業を営んでいた遺構を残している。