ここでは、津田城城址 について紹介します。

在所:大字津田

【ポイント】

①.国見山の山頂に築かれた中世の山城でした。

①.時代は延徳2年(1490)、津田周防守正信が築城したとされます。

③.この津田氏は3代目・正明の時には同じ大阪の飯盛山城の三好長慶(ナガヨシ)に従い北河内の三好勢の一大勢力となったそうです。

④.永禄4年(1561)に正明が死去。その数年後、三好長慶も死去。

⑤.津田氏は正時が跡を継ぎ、主君筋の三好氏が三好三人衆と松永久秀に分裂。

この時、正時は三好を捨て、久秀方についたがため、三好義継によって城は攻め落とされます。

⑥.正時はその後、三好氏に許され、再び津田城に復帰。しかし、織田信長が天正3年(1575)に津田城を攻撃。わずか4時間で城は落城したそうです。

【関連写真】

※ 参考情報の津田城を参照

【補足説明】

①.インターネット「ふるさと枚方発見;津田城の物語」より抜粋

 JR学研都市線・津田駅の東の方に見える山並みの北の端の小高いところが、高さ285mの国見山です。頂上近くの案内板には、1490年頃津田周防守正信が、この国見山を選んで山城を築いたとの説明があります。山頂に立つと四方が見渡せ、どこまでも広く続く景色は『枚方八景』の一つにもなっています。

 1490年頃と言えば、戦国時代が始まり強い武将が戦った頃です。津田周防守正信は、国見山に立ち、「四方が遠くまで見渡せるし、ここは山々に囲まれているので、山城を築くのにとても都合がよい」と、村人の協力で津田城を築きました。また、山全体が城を守り、長尾などに城を守る砦も作られました。麓の館には周防守一族や主な家来が住み、山頂の城には殿様が住みました。見張り所や、攻めるにも守るにも大切な虎口も造られ、いざという時の「金つき堂」や馬のつなぎ場も設けられ、谷川の水を止めて水飲み場も作るなど、山城でしのげる様々な準備がなされました。

 こうして築城された津田城では、初代・周防守正信、二代目・備後守正忠は、共に城の発展に力を入れました。
 二代目の備後守正忠は、村の「講」や「座」に参加して勢力を伸ばし、また妹の織江さんは、寺内町の招提村・敬応寺の蓮如上人・六男蓮淳に嫁入りしました。その時八幡のダルマ山を持参金代わりにしたという話が残っております。

 その後、三代目の後周防守正明の時に一番栄えました。五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)と言われる地方で力を持った三好長慶から「味方に付きなさい」と言われ、承諾すると牧野六郷などを与えられ、新田開発にも力を入れました。
 一方、津田城を築く協力をした村人は、「半農半士」という農民と武士を兼ねた生活をしました。そのため「鐘が一つ鳴れば作業を止め、二つで食を取り、三つで武器を持って山頂に詰める」という何時でも山頂に駆けつける準備をしていました。

 しかし、四代目主水守・正時の時代に目まぐるしい戦いに巻き込まれ、本願寺と関係のあった三好一族とともに、織田信長の攻撃を受け、焼け落ちてしまいました。

【参考情報】

インターネット:MARO参上「津田城」

インターネット:津田城⇒津田城の配置予想図(現地写真も表示)

Localwiki:津田氏一族の変遷