ここでは、津田正信の墓 について紹介します。
在所:津田山手町一丁目46
【ポイント】
①、津田氏は、楠木正成の下で戦功を上げた中原氏一族の移住(1334)に始まる。
このとき国見城を築く。
②.延徳年間(1489)、楠木正成後裔と名乗る武将が当地に津田城を築く。
この武将が津田正信である。
③.織田信長に攻められ、1575年滅亡
【関連写真】
【補足説明】
①.現地碑文より
津田周防守正信について
津田周防守正信は、津田氏の初代城主で、戦国時代は、ここより東に位置する国見山に居城を構え、活躍した人物である。しかし文亀三年(1503)87歳でこの地に没し、津田城の搦め手なるいばら谷を下った谷間の芝生(しばお)に墓をつくり葬られた。
以後、墓は、馬場谷に移され、更にここ古城(ふるじょう)の地に移しまつられ、幾星霜を経て今日に至る。
以来、津田氏は、備後守正忠(二代目)、周防守正明(三代目)、主水頭守正時(四代目)と続き、津田の地を統括したが、天正三年(1575)織田信長の軍勢により平定され、津田氏は勢力を失うこととなった。
②.設置場所
念仏橋を右手に沿って進むと国道307号線に通じる新道に出ます。
信号渡って右折してしばらく進むと、住宅開発地の一角に墓所があります。
この場所への移設は高速道路建設に伴って行われたもので、墓石も新しくなっています。
③.津田町史から抜粋
大阪府全誌や北河内史話では、津田氏の祖は、大和国十市郡十市城主、中原兵部少輔遠高の次男中原左衛門範高で、楠木正成に属し戦功があり、建武2年(1334)河内国津田郡を恩賞されたので当地に移り名を津田氏と改め国見城を築いたとある。
津田氏は、延徳年間(1489)室町幕府9代将軍足利義尚の時代に、楠木正成の後裔と名乗る者が当地を領し、津田正信周防守と改姓、津田城を築き当地域を支配した。