ここでは、浄念寺について紹介します。
住所:三矢町7-21
【ポイント】
①.寺院は、浄土真宗寺院である。
②.本尊は、阿弥陀如来立像(室町後期 安阿弥作)です。
③.明応4年(1495)に蓮如上人の弟子の石見入道浄念により三矢村惣道場開基。
④.永禄2年(1559)に蓮如上人第27子の実従が順興寺に入寺し、一家衆寺院(本願寺宗主の一族)として隆盛を極め付近一帯は寺内町として栄える。
⑤.天和2年(1682)の本願寺分裂で、西本願寺は浄念寺を、東本願寺は願生坊を建立。
⑥.元文4年(1739)、本願寺15代佳如の時、本寺兼帯所(門主が住職を兼ねる寺)となり、門跡御坊(枚方御坊)と称した。
・当時、本願寺15代佳如は天皇家門跡であり、山門内側土塀に菊の紋、本堂妻入りにも菊の紋
⑦.現本堂は、本願寺15代佳如が寛政7年(1795)建立。
・本堂左右廊下を本堂に取入れ外陣を大きく見せた。欄間に儒教24子孝の透かし彫りあり。
⑧.明治に入っての神仏分離令によって廃寺となった万年寺(宗派が異なる)の鐘楼や仏像を安置。
・万年寺の木造の不動明王は枚方市の有形文化財に指定されている。
⑨.江戸時代には、宿の有力者の寄り合い所として使用。
⑩.明治初年には、郡役所が置かれる。
⑪.阪神淡路大震災で本堂の向って右側の石灯篭の火袋だけ15度回った。仏像などには地震の影響なし。
⑫.門前の道路が枡形になっている。
※ 枡形道路:軍事上の観点から遠視が効きにくいように作られた「カギ型」に作られた道路。
本陣東側には、枚方橋と宗佐の辻の2箇所、西側には、ここ浄念寺と西見付の2箇所に設けられていた。
⑬.萬年寺宝物蔵・本堂24子孝の見学希望者は事前予約要。
電話:072-846-3393
【関連写真】
浄念寺全景2016_03_08 金只
浄念寺裏土蔵2016_06_09 金只
観光案内板2013_03_13 金只
河内名所図会(観光案内板切出し)
2013_03_13 金只
山門横土塀2015_02_06 金只
山門横土塀の菊の紋2015_02_06 金只
屋根先端の菊の紋2014_02_06 金只
屋根の花卉椿・菊の紋2015_02_06 金只
本堂の24子孝彫刻①2013_01_24 金只
24子孝彫刻②2013_01_24 金只
【補足説明】
①.観光案内板案内板より
枚方は浄土真宗とゆかりの深いところでした。枚方と浄土真宗の出会いは、戦国時代の順興寺建立に遡ります。永禄2年(1559)に、蓮如第27子の実従(ジツジュウ)がここに入寺し、一家衆人(イッカシュウ)(本館寺宗主の一族)寺院として栄えます。実従は「私心記(シシンキ)」という日記を残しており、枚方に住む人々の様子をいきいきと描いています。これによると、順興寺を中心に蔵谷(クラノタニ)・上町(カミノマチ)・下町(シモノマチ)などの町場が形成され、油屋、塩屋、味噌屋等の屋号を持った主任等、多くの人々がすんでいたことがわかります。このような信州寺院を中心とした集落を地内町(ジナイマチ)といいます。
枚方寺内町は現在の枚方上之町を中心に台地上にありました。しかし本願寺勢力の低下とともに、順興寺は廃され寺内町は衰退します。江戸時代になると、淀川添いに枚方宿が形成され、台地上にあった都市機能も宿へと移ってきたと考えられます。
その後、本願寺は東西に分裂し、天和2年(1682)に東本願寺は、枚方に再興した寺院に願生坊の名を与え、また西本願寺も浄念寺を本寺兼帯所(ほんじけんたいしょ)(本山直轄の寺院)として特別な扱いをしました。地域の人々は願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊とも呼んでいたようです。
※ 注記;金只
織田信長の大阪攻めの1570年、順興寺とその寺内町は信長によって焼き討ちにあい、焼失したとのことです。蔵谷にあった油屋の跡地に信長の要請で法華宗寺院太隆寺が建立された。
この浄念寺は蓮如上人の弟子が建立したと云われてますが、当時は順興寺の一つのお堂であったと思われます。
本格的に寺院としての形式を整えたのは、江戸幕府が本願寺を東西に分割させた後と思われる。
本願寺の東西分割後、蓮如上人縁のこの地に西本願寺はこの浄念寺を、東本願寺は願生坊を建立した。
【参考情報】
Wikipedia:蓮如上人
Localwiki:萬年寺由来の仏像・・・神仏分離令により廃寺された萬年寺の仏像類
Localwiki:浄念寺建立前後の歴史的背景