ここでは、淀屋辰五郎の墓 について紹介します。

在所:京都府八幡市・・・神應寺裏手のハイキングコース(こもれびルート)添い

【ポイント】

①.淀屋は大阪の豪商;中之島の開拓、米市の設立、淀屋橋の架橋など「天下の台所」大阪の発展に大きく貢献。

②.五代目・辰五郎の時、町人に過ぎたる豪奢を理由に幕府から関所処分。

③.その後、恩赦で八幡の田地が返却。八幡芝座に屋敷を構える。

④.淀屋は代々八幡神人格を有し、神應寺と深い繋がりがあった。

⑤.墓碑

  ・中央に2代目个庵、

  ・左西側に3代目箇斎、

  ・右側に五郎右衛門(个庵の弟で3代目の実父)の供養墓碑。

  ・西側脇には5代目淀屋辰五郎(広当)の墓(1684~1717)

   戒名は「潜竜軒咄哉个庵居士」

【関連写真】

 現地未調査

【補足説明】

①.Wikipediaによる事業の沿革

 ・初代岡本三郎右衛門常安は伏見城の造営や淀川堤防の回収工事を采配。

 ・その後、大阪に移って材木商「淀屋」を創設。

 ・1609~1609に掛けて中之島を開拓。

 ・二代目淀屋言當は、元和元年(1616)青物市を再開。

 ・嘉永元年(1624)海部堀川を掘削し、船着場「永代浜」に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立

 ・米価の安定化のために米市を設立。

  ※ 1620年代の米は、全国で2,700万石、市場取引は、500万石、内大阪の扱い高は200万石(市場取引の4割)

  ※ 米の取引は米切手で行われ、現代の手形へと発展し、政界の先物取引の期限とされる。

 ・寛永9年(1632)輸入生糸の糸割符の加入が認められ海外貿易に進出。

 ・寛永15年(1638)加賀藩主の意向を受け加賀米の取り扱いを始めて北前船の先鞭となった。

 ・元禄10年(1697)、対岸の堂島新地に米市場(堂島米市場)は移される。

 ・享保15年(1730)、幕府より米市場は公許され、世界初の降雪先物取引市場が八足した。

【参考情報】

Wikipedia:淀屋