ここでは、渚院跡 について紹介します。
在所:渚元町9-23
【ポイント】
①.「渚」の地名の由来は、淀川の波に侵食された砂浜近い場所。
③.この地は、奈良・平安時代には天皇家の別荘であった。
・771年、光仁天皇(770年~781年)の交野ケ原行幸で頓宮が置かれたのが始まり。
その後、桓武天皇・嵯峨天皇・後鳥羽上皇が、別荘・頓宮として約500年に亘って利用。
この間、惟喬(コレタカ)親王(844~897)が交野ケ原での遊猟の拠点として利用したのが多くの記録に残されている。
④.平清盛以後、武家政治が続き戦乱の時代しばらく続き、この地は荒廃していった。
この間、建立時期は不明だが、この地に寺院が造られる。
⑤.元和(ゲンナ)2年(1616)、渚院跡観音寺境内の粟倉神社御旅所に八幡大神を勧請し、小倉・渚両村の産土神社として西粟倉神社を建立。
⑥.寛文年間(1661-73)に至って当地渚村を支配した永井伊賀守尚庸が、由緒あるこの地の観音寺を修復し復興に努めた。
その時に記録が寛文元年(1661)建立の「渚院」碑として残されている。
⑦.明治に入って神仏分離令により、西粟倉神社は、御殿山に遷宮され、御殿山神社と改称された。
その後、観音寺は一時期小学校として利用されたが、廃寺され本堂は和田寺に移築、本尊十一面観音菩薩は西雲寺へ遷座。
跡地には村役場が建設された。・・・現在は渚保育園が建立。
⑧.廃寺観音寺の鐘楼・梵鐘はそのままとなっていたが、天皇家縁の地の寺院のため、梵鐘の戦時徴用を免れた。
廃渚院観音寺梵鐘・・・枚方市指定文化財
・河内の鋳物師の家系であった田中(藤原)家信により鋳造された。
・鐘には寛政8年(1796)4月 観音寺の銘
廃渚院観音寺鐘楼・・・枚方市指定文化財
⑨.周辺住民の維持保全活動によって現在に至る。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地説明板より
渚の院は惟喬親王(844~897)の別荘であったとされています。惟喬親王は文徳天皇(850~858)の第一皇子でしたが、立太子争いに破れ憂さを晴らすためしばしば渚の院にきたようです。「伊勢物語」には親王一行が交野ケ原に遊猟にきたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じて歌を詠むばかりであったと記しています。
世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし 業平
この歌は、この時同行した在原業平が「院の桜ことにおもしろし」として詠んだものですが、失意のうちにあって、「のどか」でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されます。
渚の院跡には観音寺が建立され十一面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離令により廃寺となり、本尊は渚の西雲寺に移されました。今に残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳造で河内鋳物師として著名であった枚方村金屋田中家信の作です。 1993年 枚方市教育委員会
②.伊賀守建立の碑文・枚方市教育委員会発行リーフレットより抜粋
碑文が読めた時代に写し取った拓本などによって御殿山神社の右袋戸の板に記録されている。
碑文は、寛文元年(1661)11月に建てられた大切な碑であることがわかった。
碑には、格調の高い漢詩で以下のことが書かれている。
・渚院を含む交野ケ原が平安・鎌倉貴族の歌心を刺激して、多くの文学作品に結実したと確認した。
・寛文年間(1661-73)当地渚村を支配した永井伊賀守尚庸が、荒廃した渚院に桜を植えるなど復興に尽くした。
・伊賀守は渚院の事跡を残すことを考え江戸初期の儒者林羅山の三男林鶯峰(1618-80)に碑銘の撰を託しこと。
・鶯峰は勅撰和歌集すべてに目を通し渚院や交野ケ原の歌を見つけ出し、「唐詩選」を引用し、渚院の持つ歴史的・文学的な意義を改めて気づいたこと。
③.廃寺観音寺:明治3年(1980)の廃仏毀釈(ハイブツキシャク)で廃寺
④.「渚」の由来・・・2013年3月ガイドの会ガイドブックより
かって、淀川の自然河道が激しく台地を侵食して汀線(テイセン)(陸地と海面が交わる線のことで、絶えず浸食され、変化していく)をなしていたことが渚(波激(ナギサ)=奈疑佐(ナギサ)の地名由来である。渚院跡の碑文には「奈疑佐院」と刻まれている。
秀吉が築かせた文禄堤は、三栗で蛇行しているが、概ね京阪電車の線路に沿っている。と云うことは、淀川の水が今の線路付近を流れていたこと示している。御殿山駅西の駐輪場付近には、京街道の松並木の名残りの松が何本か残っている。
磯島元町はもともと淀川の中洲で、明治7年(1874)、摂津国島上郡から河内国交野郡に編入されたことでも分かるように、淀川の川筋が変わってきている。(磯島元町の八幡神社には摂津国島上郡と刻まれた古い鳥居が残っている)
⑤.元々この場所は、天皇家の別荘があったところ。
・光仁天皇(770~781)・桓武天皇(781~806)・嵯峨天皇(809~823)が利用
・交野ケ原に遊行の際は、水無瀬に仮御所、ここに頓宮(トングウ)(臨時の宮殿=別荘)を設けた。
⑥.天皇になれなかった惟喬(コレタカ)親王(844~897)が、渚院で遊んで憂さ晴らしをした。
⑦.紀貫之の『土佐日記』2月9日条に
かくてふねひきのぼるに、なぎさの院といふところをみつゝゆく。
その院むかしをおもひやりてみればおもしろかりけるところなり。
しりへなるをかには、まつのきどもあり。
なかのにはには、むめのはなさけり
⑧.寛文元年(1661)、領主永井伊賀守の家臣杉井吉通建立の碑・・・平成14年周辺住民が更新
⑨.法筐印塔(ホウキョウイントウ)興善:(渚院観音寺住職)の追悼の墓
⑩.牧野村紀徳碑:牧野村誕生に功績があった小山・岡田両氏を讃えた碑
⑪.平成11年には周辺住民の協力で歌碑が建てられ、桜が植樹されるなど地域によって守り続けられています。
【参考情報】
Wikipedia:惟喬親王
Localwiki :渚院跡の歴史
Localwiki :惟喬親王伝説
インターネット:大阪再発見「渚の院跡」・・・写真はこちらを参照
インターネット:渚の院画像「最初に建立された石碑」
インターネット:渚の院画像「渚の院風景」
西雲寺参拝時受納資料:西雲寺観音堂由来記・・・十一面観音像の西雲寺への遷座のいきさつ