ここでは、田中鋳物工場跡地 について紹介します。

在所:枚方山之上町3

【ポイント】

①.田中家の創業は、奈良時代と伝えられる。

②.田中仁左衛門家 屋号 金屋

③.田中家は、河内鋳物師(カワチイモジ)として、梵鐘、半鐘、灯篭、鍋、釜、鋤、鍬など鋳造

④.江戸時代、河内の鋳物師を統率。

⑤.明治期に入ると鍋・釜や農具など小物鋳造品に専念

⑥.鋤のサキを主力製品にして操業を継続。

⑦.昭和35年(1960)に廃業。昭和40(1965)年鋳物工場と隣接する住宅(主屋)を枚方市に寄付。

⑧.枚方市は、昭和59年(1984)に「枚方市立旧田中家鋳物民族資料館」として開館。

⑨.田中家が製造したとして伝わる現存の梵鐘

 ・渚院跡の観音寺の梵鐘:枚方市有形文化財

 ・野崎観音の梵鐘

 ・願生坊、大隆寺の半鐘

【関連写真】

 田中鋳物工場跡地2013_03_18 金只  説明板2013_03_18 金只  

【補足説明】

①.現地案内板より
 ここは代々鋳物師(いもじ)として繁栄した田中家の鋳物工場があったところです。田中家の鋳物師としての起源は奈良時代と伝えられますが、枚方での営業が確実とされるのは安土桃山時代以降です。江戸時代、鋳物師は公家の真継家によって統括され、配下の鋳物師だけが正式に営業を許可されました。北河内では、田中家が唯一営業を許可され、「河内国佐右惣官鋳物師」という河内鋳物師の代表的な地位を得て繁栄しました。

 同家製の梵鐘は周辺に残り、枚方では廃寺渚院観音寺(渚元町)のものが有名です。しかし、明治以降、近代的工業製品が安価に出回るようになると、伝統的な鋳造手段が衰退し、昭和40年に廃業となりました。

 工場は、江戸時代中期の建築とされ、現在、旧主屋とともに、市立急田中家鋳物民族資料館(藤阪天神町)で移築公開しています。

                                                      2009年3月   枚方市教育委員会

②.田中家の概略 

 ・田中仁左衛門家 屋号 金屋 
 ・田中家の創業は、奈良時代と伝えられる。 
 ・田中家は、河内鋳物師(かわちいもじ)として、梵鐘、半鐘、灯篭、鍋、釜、鋤、鍬など鋳造 
 ・江戸時代田中家は、真継(まつぐ)家(l公家)の支配のもと「河内国惣官鋳物師」として河内の鋳物師を統率。
 ・1738年(元文3年)真継家は田中家を茨田、交野、河内(のちの讃良(せら))3郡の大工職に指定 
 ・田中家の銘がある最初の梵鐘は、1623年(元和9年)鋳造の光善寺の梵鐘・・・大戦で供出 
 ・禁裏御用として清涼殿の「かひともし=鉄灯篭」など高度な技術で鋳造 
 ・昭和35年頃廃業 
 ・昭和59年(1984)、工場と主屋は藤阪王仁公園内に移転し、枚方市立田中家鋳物民族資料館として一般

③.近代の田中家(田中家鋳物民族資料館の展示パネルより)
 明治期を迎えると欧米の技術を導入した鋳物工場が各地に設立され、量産品が安価に出回るようになりました。
 田中家は手間のかかる鐘の鋳造をやめ鍋釜や農具などの小型鉄製品の鋳造に専念して対抗しますが、昭和初期には鍋釜の鋳造からも手を引いてしまいます。
 その後は、「値は高いが、切れがよく、農作業が良くはかどる」との信頼を得ていた鋤のサキを主力製品を続け、太平洋戦争終戦後に生方という近代的な鋳造技術も取り入れました。
 しかし、耕転機の普及によって鋤が使われなくなり、昭和40年(1965)頃には廃業しました。

 ・枚方市有形文化財・・・田中家鋳物民族資料館展示パネルより切出し(2019_07_19)

 大正期の田中家復元図   大正期の田中家配置図   最後の製品農耕用鋤のサキ

④.田中鋳物師家が鋳造したと伝えられているもの
 ・渚院の梵鐘・・・枚方市指定文化財
 ・野崎観音の梵鐘
 ・枚方元町の大隆寺、願生坊の半鐘

【参考情報】

Localwiki:旧田中家鋳物民族資料館

Wikipedia:河内鋳物師