ここでは、番田排水路遊歩道(玉川の里) について紹介します。
在所:玉川一丁目
【ポイント】
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板(番田水路玉川緑地)
番田排水路は、江戸時代に高槻市大冠地域の悪水を玉川へ放流するため、芝生大樋より下流が開削されたのが始まりです。以後、玉川地域も下流方向へと開削されてきたと云う古い歴史があり、淀川右岸に広がる三島平野の農地を潤し、度重なる河川の氾濫から人命及び住民の財産を守る排水路として、その機能を十分に果たしてきました。
この様な歴史をもつ水路の周辺が市街化によって自然の景観が失われつつあることから、水路敷を親水公園として整備し、玉川の里と共に永く親しまれる施設となるように、又、地域のオアシス広場として育てることを目的としています。
平成10年4月
➁.現地案内板(芭蕉句碑の移設)
芭蕉が当地を訪れて残した
「うの花や くらき柳の およびごし」
の句を近隣の有志が芭蕉150回忌の天保14年にこれを碑に刻んだが最近では都市化の進展で名所玉川もその面影を失いつつある。
このため、緑地の整備とあわせて句碑の移設を行い玉川の里の歴史を偲ぶよすがとした。
昭和60年3月吉日
③.案内板(玉川うの花樋の歴史)
江戸時代、西面(サイメ)村は「玉川湖沼の面の西」として存在していた。玉川湖沼の水は、源の阿武山より流れ、西河原疣(イボ)水神社西方を経て流れ込んでいた。
一方、番田組の悪水は、柱本村領で排出されたものを高槻城主永井直達により大塚村の西で新川及び芥川を伏せ越し、芝生村(シボムラ)から西に開削あされたほぼ3里に井路を経て、玉川に導かれた。
川幅が拡大された玉川・安威川(アイガワ)には、隔流堤(カクリュウテイ)が別府村の上まで1600間あまりにわたって築かれ、悪水は安威川から神崎川に流入することになった。
西面村は条件として玉川うの花樋と地蔵堂樋を設置させたものである。これはいまより310年前のことである。
新しき時代その名残を偲ぶ
編成22年3月吉日
西面実行組合
西面自治会
紙安土地改良区
【参考情報】
インターネット:たかつきナビ(玉川の里)
インターネット:卯の花の名所