ここでは、百済寺跡 について紹介します。

在所 枚方市中宮西之町4340番 
種別 国指定文化財 記念物 特別史跡
指定 昭和16年01月27日、昭和27年03月29日
所有 百済王神社

ポイント】

①.陸奥守百済王敬福(キョウフク)が、隣接の百済王神社建立と共にここの寺を氏寺とした。

 ・興福寺の六寺帳に、岡寺の義淵僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基によるものと記されている。

②.平安中期に藤原氏の勢力に押され衰退、寺は焼失

③.荒廃した状況で、昭和16年国の史跡に指定。

④.昭和27年、国の特別史跡に指定される。

⑤.昭和43年、史跡公園として整備される。

⑥.昭和59年10月に枚方八景の一つに選ばれる。

⑦.平成13年、百済寺跡の発掘調査で見つかった百済寺遺跡出土塼仏は大阪府の指定文化財。 

【関連写真】

 現在、施設公園として整備の途中にあります。

 百済寺跡イメージ図(枚方文化財だより切出し)
2017_07_28 金只
 

 現地説明会説明版より(発掘調査地点)2013_03_02 金只​   現地説明会説明版より(発掘調査地点写真)2013_03_02 金只​   

 過去の各箇所の写真は以下のとおり

 百済寺東門跡2014_07_01 金只​   標柱(百済王神社)2012_04_05 金只​   

 由来説明銅板全景2014_07_01 金只​   由来説明銅板2012_04_05 金只​   

 現地案内板2013_01_02 金只​   配置図石板2012_04_05 金只​ 

 金堂跡地2013_01_15 金只​   金堂東回廊跡地2013_01_15 金只​   

 東塔跡地2013_01_15 金只​   中門跡地2013_01_15 金只​   

 南大門跡地2013_01_15 金只​   西塔跡地2013_01_15 金只​   

 東院跡地2013_01_15 金只​   

【補足説明】

①.「特別史跡 百済寺跡」の銅版表示から

 ここに寺跡をとどめる百済寺については、興福寺官務○○とい寺帳に、岡寺の長淵僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基したものであることが記されている。

 寺跡の西隣に百済王神社があり百済寺と称したことから、百済王氏一族の氏寺であと考えられる。従ってその一族が天平勝宝2年における百済王敬福の宮内卿件河内の守任官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れ、ここ交野郡の土地を賜って移住し、氏神百済王神社と氏寺百済寺を建立したものと思われる。

 その後一族から優秀な人達を輩出し、また、桓武天皇朝にはその外威として繁栄し、当寺もこの氏族と盛衰をともにした。後には、奈良興福寺も末寺として室町時代までその命脈をつないだようにおもわれる。現百済王神社本殿が、興福寺と一体的なものであった春日大社関係の社殿を移建したものと認められることもこれを裏付けている。

 昭和40年投じの市長寺嶋宗一郎ほか地元の有志は、それまで雑草の繁茂にゆだねられていたこの寺跡を市民の親しみうる場所とするための環境整備事業を発起し、大阪府教育委員会はその概要を知るために全面的な発掘調査を実施し、ついで枚方市が国及び府の補助金を得て、わが国で初めての史跡公園を完成したものである。

 この調査の結果、一辺長1町半、約160mを占める方形寺地の中心線上に伽藍を配し、寺地南限の南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両を包含し金堂両脇に取付くもので、新羅の感恩寺と同形式であることがわかる。またこの伽藍成立以前の奈良時代前期にも仏舎の営まれていたことが、出土川原から考えられに至った。さらに寺地東南隅角に、東院とも呼ぶべき一郭があり、うちに一堂宇を配していたことも判明した。

 ともかくこの寺跡は、寺地全体とともに主要堂塔の大部分を遺存する稀有なものであり、また、その伽藍の配置形式は、その歴史的背景とあいまって古代日韓文化交流の史実を微証する価値が高い史跡である。

 昭和27年3月27日 文化財保護法の規定により特別史跡の指定を受ける。

 昭和60年3月                                 文化庁 大阪府教育委員会     

                                        管理団体 枚方市 

②.現地案内板より

 特別史跡 百済寺跡

 百済が新羅と唐の連合軍によって滅ばされた860年に百済王の一族がわが国に亡命してきたのち百済王の姓を得た。奈良時代から平安時代初期にかけて百済王氏一族は政治的にも重く用いられ、ことに陸奥国の経営には貢献するところ大であった。

 百済王敬福は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で採れた金を塗装用として献上した功により、河内守に任じられた。

 そのため一族は中宮の地に住み、奈良時代の中頃に氏寺として百済寺を建立したものと考えられる。伽藍配置は、わが国では例をみないもので、新羅の感恩寺跡(韓国慶尚北道)とよく似た型式である。

 百済寺跡公園は、昭和43年(1968)に全国で初めての史跡公園として整備された。   1993年 文化庁

                                                大阪府教育委員会

                                                枚方市教育委員会

③.百済王一族の日本への渡来。

 -1百済国は、朝鮮半島の三国時代(高句麗・新羅・百済)の対立で660年(日本と密接な関係にあった)百済が新羅と唐の連合軍により滅亡。

 -2.多くの百済人が日本に亡命・帰化し、軍務や実務で朝廷に貢献。

 百済国王の禅広は、やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏(クダラノコニシキ)氏という姓を賜り難波の地に居住した。

 -3陸奥守百済王敬福(キョウフク)は、天平21年(749)陸奥国で採れた黄金900両を聖武天皇に献上し、東大寺・大仏の建立に貢献。

 -4.敬福はその功により天平勝宝2年に従五位から従三位宮内卿兼河内守に任命され中宮の地に住む。

   →氏として百済寺を、氏神として百済王神社を建立

  ・1町半(約160㍍)四方の規模に七堂伽藍を建立

 -5.桓武天皇朝には外威として繁栄し、後には、奈良興福寺の末寺として室町時代まで命脈をつないだ。

 -6.百済王は平安中期に藤原氏の勢力に押され衰退→寺の焼失。

 -7.荒廃した状況で国の史跡指定(昭和16年)、更に特別史跡に指定(昭和27年)。

 -8.その後、全国初の史跡公園として指定し整備(昭和43年)。(他に大阪城公園)

七堂伽藍とは、一般には、塔、金堂(コンドウ)、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂(ジキドウ)を言う。

【参考情報】

Wikipedia:百済寺(枚方市)