ここでは、神應寺 について紹介します。

在所:京都府八幡市八幡西高坊24

【ポイント】

①.創建;貞観年間(859~877)行教によると伝わる。

②.室町時代後期に禅宗(曹洞宗)寺院となる。

③.明治以前は、石清水八幡宮の神守寺であった。

④.主要建造物

 ・本堂;寛政7年(1795)再建。

 ・書院;寛永年間(1624~1643)の建立と推定。

 ・鐘楼;元禄5年(1692)の棟札あり。

⑤.文化財

 ・木造行教律師坐像・・・国指定重要文化財。

【関連写真】

 一の鳥居前の参道入口2019_12_28 金只   鳥居前の道案内2019_12_28 金只   

 神應寺山門2019_12_28 金只   入口の道案内2019_12_28 金只   

 山門前の案内板2019_12_28 金只   神應寺の由来2019_12_28 金只   

 本堂2019_12_28 金只   書院2019_12_28 金只   

 鐘楼2019_12_28 金只   天然記念物保存大樟木樹2019_12_28 金只   

 淀君茶室の石2019_12_28 金只   豊川稲荷社2019_12_28 金只   

【補足説明】

①.現地案内板より

 由緒

 当寺は、八幡神を宇佐より男山に勧請した僧行教により、貞観2年(860)に応神天皇の位牌所として開創したと伝え、法相・天台・真言と宗旨はかわり、室町時代に曹洞宗に改宗する。

 豊臣秀吉の正室北政所が帰依する弓しん善きょうは、当寺の中興12世住職である。豊臣秀吉朱印状により天正17年(1589)寺領120石が給され、文禄元年(1592)の朝鮮出兵時には九州名護屋へ出陣を見舞う間柄であった。その後、徳川家康をはじめ歴代徳川将軍から寺領が安堵され、八幡宮領内や近隣に末寺数ケ寺を組織していた。

 19世郭翁こう然は、大奥総女中頭右衛門佐局の支援で、将軍徳川綱吉と御台所より袈裟を賜わり、各地を勧進行脚して寺観を整えた。元禄12年(1700)多くの雲水が毎年修業する常法憧地の寺格を得て、洛南有数の禅苑となる。

 明治維新の神仏分離では男山の仏教施設は悉く徹却されたが、開山堂に祀られていた行教像は、還俗式で記中津御祖神と改称して難を逃れ、明治6年墓所のある当寺に移徒された。この行教律師坐像は、一本彫成・翻波式衣文表現等平安初期彫刻として国の重要文化財に指定されたいる。

 書院は、江戸時代初期で八幡市域現存最古の書院建築であり、書院障壁画(八幡市指定文化財)は、狩野山雪の優品である。鰐口(京都府指定文化財)は元弘2年(1332)の銘を持つ基準作である。

 奥院杉山谷不動堂にあるこんが羅童子・制多迦童子立像(八幡市指定文化財)は、14世紀後半作の等身大の貴重な像である。

 境内墓地には、大阪淀屋橋・常安橋に名を残し、巨富と分を過ぎた豪奢な生活をとがめられ欠所処分で衰微した、豪商淀屋辰五郎一族の墓碑や淀藩永井家の家老一族・右衛門佐局等の供養塔がある。その他多くの貴重な史料や文化財を伝える。

絲杉山(シシンザン) 神應寺

【参考情報】

Wikipedia:神應寺

インターネット:行教律師坐像