ここでは、火薬庫土塁遺構 について紹介します。
【ポイント】
①.禁野火薬庫土塁遺構は、4箇所残っている。
②.禁野火薬庫は、日清戦争(1894-1895)をきっかけに禁野本町に最初は作られた。
③.1回目大爆発:明治42年8月20日午前2時過ぎ、第2倉庫が爆発
④.その後、日露・第一次・第二次世界大戦と戦争が拡大する中、ここ上野町まで広げられて来ました。
⑤.2回目大爆発;昭和14年(1939)3月1日午後2時45分第15倉庫で信管取り外し中に爆発。
⑥.火薬庫の不慮の事故に備えて、建物は土塁で囲んだ構造が採用された。
・今も残る建物への出入りのため、土塁にはトンネル通路。
⑦.火薬輸送のための軍用鉄道も敷設された。・・・JR津田駅からの引込線
⑧.京都・奈良の中間に位置するため、第二次世界大戦では、空爆を免れた。
⑨.戦後、平和都市を目指し、火薬庫跡は解体し、住宅団地が造成され今日に至る。
【関連写真】
残存土塁ー1(団地南入口)
御殿山方面から見た土塁2018_01_15 金只
南方面から見た土塁2018_01_15 金只
残存土塁ー2(案内板設置の土塁)
南面2018_01_15 金只
北面2012_04_05 金只
外部連絡トンネル2018_01_15 金只
連絡通路横の案内板2018_01_15 金只
残存土塁ー3(中宮浄水場横)
残存土塁2015_01_15 金只
連絡トンネル跡2015_01_15 金只
残存土塁ー4(高陵小学校)
校門横の残存土塁2013_05_03 金只
校舎横の残存土塁2014_05_03 金只
【補足説明】
①.現地説明版より
枚方製造所の土塁
戦前この一帯には、陸軍の兵器用火薬や砲弾・弾薬を収蔵する禁野火薬庫があった。最大時にはここから現在の市民病院に至る敷地を擁し、さらに昭和13年(1938)には、東隣にその面積を上回る枚方製造所が設置される。これによって、砲弾や爆弾の製造と火薬の充填が一貫して行われるようになり、国内屈指の一大軍需施設となった。
禁野火薬庫は、昭和14年3月1日に大爆発をおこし、火薬庫はもちろん周辺の住民に大きな被害をもたらせた。軍人・民間人を含む死者は100人近くにのぼり、家屋の全半焼821戸および多数の負傷者を出す大惨事であった。
事故後、禁野火薬庫は縮小され、北側のおよそ3分の2の敷地が枚方製造所に移管されるが、戦争の激化とともに新たに大阪陸軍造兵廠の火薬・信管工場がこの敷地に移転してくる。ここに現存する土塁は、それに伴う施設である。
枚方製造所・禁野火薬庫ともに火薬を収納した倉庫は、仮に爆発しても被害が拡大しないように、倉庫の屋根まで達する墾固な土塁で1棟ずつ囲まれていた。昭和20年(1945)の敗戦により軍施設は閉鎖されたが、以後団地の造成に伴い土塁・施設等は取り除かれ、わずかにこの一角と高陵小学校の東側だけ土塁が残り、戦争の生き証人となっている。
枚方市は、昭和57年(1982)12月「非核平和都市宣言」を行うとともに、禁野火薬庫大爆発から50年目の平成元年(1989)3月1日に、「3月1日」を「平和の日」と定めた。さらに、平成7年(1995)の被爆・戦後50周年を機に、この土塁を平和のモニュメントと位置づけた。
平成20年(2008) 大阪府枚方市
【参考情報】
Wikipedia:禁野火薬庫
Localwiki :禁野火薬庫爆発事故
Localwiki :枚方・交野の軍事施設配置図
Localwiki :枚方の軍事施設
Localwiki :米軍の空爆目標計画