ここでは、私部城址(交野城址) について紹介します。
【ポイント】
①.戦国時代に築城されたが、防御を目的としたものでなく、広域支配を意識した平城であったと思われる。
戦国時代の終わりと共に解体されたものと思われ、詳細は不明。
➁.城址には民有地が入り込み地権関係の整理が出来てないため整備が遅れ、危険が予測出来ることから【立ち入り禁止】となってます。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板(私部城址本郭)より
私部城は戦国時代の河内の武士・安見氏の居城です。本郭などの曲輪(城の陣地のことで郭とも書く)が並ぶ連郭式の平城です。交野城の名でも知られます。本地点は本郭の南西隅にあたり、西に位置する二郭との間には遺跡もよく残ります。
本郭の中心部は城の中で最も標高が高い地点にあります。この付近の発掘調査で廃棄された瓦片と石材が多く見つかっており、本郭に瓦屋根の建物が存在したと考えられます。
『信長公記』には 天正6年(1579)10月1日に織田信長が堺から京都へ向かう途中、「安見新七郎所(私部城)か」で休息したと記されており安見氏が信長の信頼を得ていたことがうかがえます。
信長の死後、安見氏は交野から伊予(現・愛媛県)や加賀(現・石川県)へ移り、砲術家として活躍しました。
平成3年8月 交野市教育委員会
【参考情報】
Wikipedia:交野城址