ここでは、継体天皇樟葉宮跡伝承地 について紹介します。

在所 枚方市楠葉丘2丁目19番1号 
種別 府指定文化財 記念物 史跡
指定 昭和46年03月31日
所有 交野天神社

【ポイント】

①.第26代継体天皇の即位の地とされる(507年・日本書紀)・・府指定文化財

②.交野天神社末社貴船神社本殿は、一間社流造(桃山時代)の遺構・・市指定文化財

【関連写真】

 継体天皇樟葉宮伝承地2014_07_20 金只   階段下案内板2012_06_06金只​   

 階段上案内板&標柱2013_02_15 金只   階段上説明板内容2012_10_29 金只​   標柱(継体天皇樟葉宮史跡伝承地)
2012_06_06 金只20%

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 樟葉宮伝承地2017__04_05 金只​   貴船神社鳥居2014_07_20 金只​   

 【補足説明】

①.階段下現地案内板より

 「日本書紀」継体天皇元年の甲甲の「天皇行至樟葉宮」と見え、そこに即位せられた樟葉宮が樟葉と呼ばれたこの地域に営まれたと考えられており、交野天神社境内の東北に当る小高い丘の上にある貴船神社の付近が継体天皇樟葉宮跡と伝えられている。

 村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現交野天神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮跡とせられていた丘に移したものと伝承されている。

 武烈天皇の死後、大連大伴金村(オオムラジオオトモノカナムラ)らによって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹王(オオドノオオキミ)は、507年樟葉で即位したとされます。

 このとき王の知己(チキ)であった河内馬飼首荒籠(カワチノウマカイノオビトアラコ)が密使として活躍しており、即位には、北河内を本拠地とする馬飼部(ウマカイベ)の大きな貢献があったと考えられます。

 継体天皇は、五年後に山背国筒城(ヤマシロノクニツツキ:京田辺市付近)、12年後に弟国(オトクニ:長岡京市付近)に移りましたが、大和国(ヤマトクニ)に入ったのは20年後のことです。

 なお、関白左大臣一条実経(サネツネ)(1223−84)は、次の歌を詠んでいます。

   くらもじな  ますみの鏡  かげそふる

    くずはの宮の  春の夜の月          (続古今和歌集)

                                                        200410月 枚方市教育委員会

②.階段上説明版より

 大阪府指定史跡交野天神社 継体天皇樟葉宮跡伝承地

 「日本書記」継体天皇元年正月甲申の条に「天皇行至樟葉宮」と見え、そこに即位せられた樟葉宮が樟葉と呼ばれたこの地域に営まれたと考えられており、交野天神社境内の東北方に当る小高い丘の上にある貴船神社の付近が継体天皇樟葉宮跡と伝えられている。村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現交野天神社社殿のあったものを樟葉宮跡とせられていた丘に移したものと伝承されている・                     大阪府教育委員会

③.馬飼部と継体天皇

  当時の馬飼部は、牧場を持って馬の飼育にあたり、馬と口輪取りを各王族に貸し出していました。

  その縁から越前の男大迹王と河内馬飼首荒籠は知己であった。

  武烈天皇亡き後、大伴金村等は、まず丹波国にいた倭彦王に迎えの兵を向かわせたが、倭彦王は攻めに来た兵と勘違いして逃亡した。

  続いて男大迹王に迎えの兵を送ったが、河内馬飼首荒籠からその目的を知らされていたので、男大迹王は兵を起こして河内馬飼首荒籠の牧場のある樟葉の地に拠点を構え、また、この地で即位したものである。

  身分の低い馬飼部の情報を信じた男大迹王は、その後も河内馬飼首荒籠を諜報機関として活用し、武烈天皇時代に群雄割拠した状態を統一した。

【参考情報】

Wikipedia:継体天皇

     今城塚古墳

     大田茶臼山古墳