ここでは、菅原交差点 について紹介します。

在所:長尾元町4丁目

【ポイント】

①.交差点の東側に寺池があった。

②.山根街道は、池の堤防上をぐるっと回った形であったと伝わる。

【関連写真】

 交差点風景

【補足説明】

①.菅原生涯学習市民センター 田中 史生氏の資料より

 昭和37年(1962)頃、長尾口(現、菅原)交差点からJR長尾駅へ通ずる府道が開通するまでは、旧山根街道に面した今の交差点の場所に小さな池があり、「ジイケ」と呼ばれていました。この場所は旧街道が長尾集落から南の谷に下り、再び菅原小学校のある尾根筋に上がる地形の変換点であったところで、山根街道は元々、

谷筋を堰きとめた池の堤を通っていたものと思われます。

 『長尾史』にはこの池の畔にあった勝園寺の亭(アズマヤ)に宝暦年間、陣屋の代官や近郷近在の名だたる文化人が集い、詩作に励み『勝園寺十景』としてまとめた様子が紹介されています。その当時、この池は勝園寺の池、つまり「寺池」であったと思われます。

 不幸にして、この池が永く長尾の人々に記憶に留められることになったのは、慶応4年(1869)正月の戌辰戦争、鳥羽伏見の戦いでの光景であったと伝え聞きます。敗残の幕兵たちが、数日前には隊列をなして京へ上がった往還を、落ちぶれ手負いとなった姿で逃げ戻り、ある者はこの池で落命し、またある者は戸板に乗せられて大阪に向かって後送される。敗走の混乱の中、地域の大家に押し入り、無体を働いて逆に討たれる者もありました。

 札の辻に近く、交通の要衝にあった勝園寺は、後送の際の村送りを担った所と思われ、今でいうトリアージの場となったようです。巷間に広がる遺品を寺池で洗った云々という話もこの場所の果たした役割を考えると、単なる口伝ではないように思われます。