ここでは、菅原天満宮(長尾) について紹介します。

在所:長尾宮町1丁目12-1

【ポイント】

①.元和元年(1615)年大阪落城の後、徳川家康の命により、その旗本の久貝幡守正俊公が河州交野郡領有。

②.その頃長尾の丘陵地は荒野で河内、山城の国境で交通の要所であり、古来から戦略上の要地であったため、ここに陣屋を営まんとした。

③.陣屋を建てるには村おこしが必要と久貝氏の家来細谷善兵衛氏は戸数十三戸の村民や近隣村民を集め、長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造った。

④.開墾地は良い土壌で穀物の増収があり、この丘陵は「福をもたらす岡」とのことから「福岡村」と名付けた。

⑤.慶安3(1650)年には戸数33戸に増加、正俊の子・正世が長岡天神の分霊を勧請し、菅原天満宮を創建。

⑥.その後年には陣屋も建ち、開墾地、戸数は増加の一途をたどる。やがて摂社として「峠天満宮」や「高野道天満宮」また、「水神宮」「高倉稲荷大神」「皇大神宮」が順次ご造営された。

⑦.「福岡村」は、貞享3年(1686)「長尾村」と改称され、幾多の合併を繰り返し、昭和30年に枚方市と合併し現在に至っている。

⑧.1739年には氏神再建、1755年拝殿再建との記録もあるが老朽化が著しく進んだため、平成3年から修復を開始し、平成6年3月27日に竣工した。

⑨.テンダイウヤクの群生地。

⑩.祭神:菅原道真。

⑪.近年植樹された神社正面広場の桜は見事。

【関連写真】

 一の鳥居全景2014_08_13 金只   二の鳥居2014_08_13 金只   

 三の鳥居2014_08_13 金只   拝殿2014_08_13 金只   

 水神宮                  高倉稲荷大明神

 

 

 

 

【補足説明】

①.参道脇の由緒書きより

 寛永20年(1643)、領主の久貝因幡守正俊は、家臣の細谷善兵衛に命じて八田川の川筋で当時八田広と呼ばれた荒地を開墾させ、新田開発を行った。新田開墾の翌年に福岡村と名付けられたが、貞享3年(1686)に長尾村と改称された。

 菅原神社は、慶安3年(1650)に正俊の子・正世が、長岡天神の分霊を勧請して社殿を造営したのが始まりとされている。祭神は菅原道真で、社殿は文化4年(1807)の再建であるという。

 付近の杜はテンダイウヤクの群生地で、市内でも重要な植物群落である。テンダイウヤクは中国原産で、日本へは享保年間(1716~1735)に伝来し、九州や近畿などで野生化している。

                                                        平成6年 枚方市教育委員会

②.水神社(貴船神社) 祭神は、タカオカミ神・クラオカミ神

 本殿右手にある祠。神額には『水神宮』とあり、所謂“水神さん”である。元は本殿裏にあった2つの池の畔に祀られていたようで、18世紀末頃に今の位置に移ったという。

 長尾史によれば、この祠は本社創建当時からあったといわれ、最初は「八大竜王」を祀る水天宮と呼ばれていたが、その後、山城の貴船神社から分霊を勧請し『貴船神社』と称するようになったとある。

 神名“オカミ”は龍を意味する水神で、タカオカミは山上に降る天を司る水源の神、クラオカミは峰々から流れ降る渓流の水を司る神とされる。

 平安初期の太政官符に「河内の交野郡は土地が痩せていて、ややもすれば旱魃に悩まされ、その田は一年おきの耕作にしか耐えない云々』(枚方市史)とあるように、川はあるものの平素は水の少ない涸れ川ということで水利の便が悪く、水神さんへの雨乞いは恒例行事だったという。

 このような土地柄が天神を祀り水神を祀る由縁であろう。

③.稲荷神社--祭神:ウカノミタマ命

 長尾史によれば、延宝6年(1678)、久貝陣屋の北西隅に勧請されたもので『お陣屋稲荷』と呼ばれ、毎年の初午の日には長尾以外からも多くの参詣者が集まり、氏神である神社本来の祭よりも賑やかだったという。

④.道真と牛

 境内に大きな“牛の臥像”があるが、道真と牛との関係は深い。道真の誕生日・逝去日がともに丑の日との伝承、あるいは「道真左遷のとき、藤原時平の命をうけて途中で殺そうとした刺客が道成寺近くで追いつき斬りかかったとき、突如現れた暴れ牛が角にかけたこれを殺した。この牛は道真が可愛がっていた牛で、左遷決定後姿を消していた。道真は大変喜んで、この牛に乗って心やすく旅を続けられた」などがある。

【参考情報】

Wikipedia;菅原道真

インターネット:大阪府神社庁第三支部菅原神社

 

インターネット:枚方の神社ー4