ここでは、萬年寺旧跡 について紹介します。

在所:梅林から意賀美神社への登り口

【ポイント】

①.この地域には、4世紀頃、淀川の運行を司る豪族の墳墓があった。

②.推古天皇(600年代摂政は聖徳太子)のとき高麗の僧が来朝し、この地の風光明媚を賞し草庵を営む。

③.平安時代の貞観(ジヨウガン)(860)、真言密教の聖宝上人が来て、のちに伽藍を建立。

  ・万年寺は真言宗醍醐寺末寺であった。

④.惟喬親王(844-897)の愛鷹が巣を作ったとの言伝えから長松山萬年寺と呼ばれだした。

⑤.萬年寺は明治初年の神仏分離令により明治3年廃絶した

  ・本堂・鐘楼は浄念寺に移築。

【関連写真】

      万年寺遺跡2014_06_30 金只

  河内14番目の巡礼寺乃碑2013_03_18 金只  万年寺十三石塔2013_01_10 金只

【補足説明】

①.元枚方市観光ボランティアガイド南場氏資料より

 二の鳥居の左手に旧萬年寺の「長松山萬年寺」と刻む石標と、先の方の相輪部が崩れた九重塔(元は十三重)の石塔がある。梅林のある所が萬年寺の伽藍跡

 推古天皇(600年代摂政は聖徳太子)のとき高麗の僧が来朝し、この地の風光明媚を賞し草庵を営む。その後、平安時代の貞観(ジヨウガン)年(860)、真言密教の聖宝上人が来て、のちに伽藍を建立、萬年寺と呼ばれた。萬年寺は真言宗醍醐寺末寺であった。因みに京都醍醐寺(桜の名所)は貞観16年(874)聖宝上人の創建である。

 萬年寺は明治初年の神仏分離令により明治3年廃絶した本尊・鐘楼などは、三矢の浄念寺に移された。長松山萬年寺の名は、惟喬親王(コレタカシンノウ844897文徳天皇第一皇子)の鷹が巣を作ったという老松(根上がりの松)にちなんで長松山と名付けられたと云われている。

 萬年寺は、この地で萬年通宝が鋳造されたことに因んで萬年寺と呼ばれるようになったと云われる。萬年通宝の鋳造は奈良時代(8世紀700年代)創業と言われる田中鋳物師の祖先かも?。そして、この山を万年寺山というようになったと云われる。

 ※ 万年通宝(銅銭)

 和銅元年(708)鋳造和銅開珎(ワドウカイチン)が最古。その後、760年、朝廷は和銅開珎に代わり万年通宝(銅銭)を発行。これは平城京造営・大仏殿建造(751年)に多額の出費で財政が悪化したため発行されたという朝廷は平安中期までの280年間に合計12種類の銅貨、2種類の銀貨、1種類の金貨を鋳造発行した。これらを皇朝銭と呼び、銅銭を皇朝十二銭と呼んだ。しかし、和銅開珎より以前に鋳造された富本銭(フホンセン)が明日香村で平成年に鋳造跡が見つかった最近の教科書では富本銭が最古と記されている。日本書紀には天武12年(683)に「今より以後、必ず銅銭を用いよ」と詔がありこれが富本銭といわれる。

 慶雲5年(708)、武蔵国秩父郡から銅が献上され、これを喜んだ朝廷は年号を「和銅」と改元し、日本最初の貨幣「和同開珎」を発行した。今もなお埼玉県秩父市黒谷の和銅山に「和銅遺跡」として残されている。<秩父市HPより>

【参考情報】

Localwiki:惟喬親王伝説