ここでは、蓮如上人腰掛石 について紹介します。

在所:出口五丁目 

【ポイント】

①.吉崎(福井県)から、文明7年(1475)蓮如上人が、最初に身を寄せられた「箕屋」があった場所。

②.上人はこの石に腰掛けて説教されたとの伝。(現在も信仰の対象)

③.御田地とはお上から預かった田畑のことだが、ここでは、説教の場所の此処。

④.有名な白骨の御文は、ここで生まれた。

⑤.昔から出口の人々は「だんご」を作る風習があり。

 腰掛石の形から「石だんご」と呼ばれ、後に「出口だんご」となった 

【関連写真】

 全景2014_05_13 金只  田地標柱2014_05_13 金只  

   蓮如上人旧跡碑2014_05_13 金只       蓮如上人御腰掛石之碑2014_05_13  

 腰掛石全景2014_05_13 金只  腰掛石2014_05_13 金只  

【補足説明】

①.蓮如上人と光善寺・・・南場さん資料より抜粋

 この地は、蓮如上人が越前の吉崎からこの出口にこられたとき最初に身を寄せられた箕屋があった場所です。

 ​この箕屋のことは、左の石碑に書かれています。

 この箕屋の主人は後に「御厨石見入道光善」と名乗ったので、その縁で光善寺の名がついたようです。

②.腰掛石の言われ・・元ボランティアガイド南場氏資料より抜粋

 蓮如上人はこの石に腰掛けて説法されたとのことです。このように民衆の教化・説法は多くの信者を集め、その名はいやが上にも高まり、上人の腰掛けられた石にも功徳ありと多くの人がお詣りしたそうです。(人は功徳利得あるものに触りたがる)

③.御田地とは・・・南場さん資料より抜粋

 御田地=お上(天領・領主・寺院(寺領))から預かっている田畑の意。敬称を付けて御田地という。ここでは上人が説教の場所として利用した土地。

④.「白骨の御文」の発祥の場所・・・南場さん資料より抜粋

 出口村に木綿を商う商人がいた。一人娘があり近郷近在に並ぶ者なしの美人で掌中の珠と可愛がっていた。この娘が18才のとき交野の旧家の息子と婚約が整い明日挙式と言うとき、娘は突然の病で死んでしまった。両親は嘆き悲しみ打ちひしがれていた。それを見た蓮如上人は、すぐさま一編の文章をしたためこの商人に与え、慰め教え、かつ導いたという。その文章とはなにあろう、浄土真宗では葬式のときに聞かされるかの有名な「白骨の御文章」であった。

⑤.白骨の章全文・・・西本願寺ホームページより 

 それ、人間の浮生(ふじょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。

 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。

 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親(ろくしん)・眷属(けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。