ここでは、『藤原俊成の歌碑』 について紹介します。
【ポイント】
①.平安時代後期、鎌倉時代初期の歌人
②.平成12年枚方市長中司氏建立
【関連写真】
【補足説明】
①.歌碑の歌
またや見む 交野の御野の 桜がり
花の雪散る 春の曙
[通訳] 再び見ることができるだろうか。こんな光景を。交野の桜を求めて逍遥していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。
[語訳] またや見む;再び見ることができるだろうか。ヤは反語でなく疑問
交野;河内の国の歌枕。今の大阪府枚方市あたり、禁野があった。カタに難いの意を掛ける。
桜がり;花見。冬にする鷹狩を桜狩に置き換えた趣向。
[補記] 伊勢物語82段を踏まえる。「今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし云々」。建久6年(1195)2月、九条良経邸歌会での作。俊成82歳、最晩年の秀逸。『長秋詠藻』に文治6年(1190)女御入内御屏風和歌として以下のように掲載する歌を、改作したもの。
野辺に鷹狩したる所
又もなほ 人に見せばや 御狩する 交野の原の 雪の朝を
②.藤原俊成
・時代;平安時代後期、鎌倉時代初期
・生誕;永久2年(1114) 死没:元久元年(1204)
・官位;正三位、皇太后宮大夫
・略歴
藤原俊成(ふじわらとしなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有識読みで「しゅんぜい」とも読む。
藤原北家御子左流、権中納言・藤原年忠のの子、始に葉室家に養子に入り藤原(葉室)顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左流家に戻り改名した。
『千載和歌集』の編者として知られる、
【参考情報】