ここでは、『藤原俊成の歌碑』 について紹介します。

在所:枚方市西禁野2丁目1 天津橋北側

【ポイント】

①.平安時代後期、鎌倉時代初期の歌人

②.平成12年枚方市長中司氏建立

【関連写真】

 全景2014_07_01 金只​  歌碑と建設趣旨碑2014_07_01 金只

 【補足説明】

①.歌碑の歌

またや見む  交野の御野の  桜がり

花の雪散る  春の曙

  [通訳] 再び見ることができるだろうか。こんな光景を。交野の桜を求めて逍遥していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

 [語訳] またや見む;再び見ることができるだろうか。ヤは反語でなく疑問

     交野;河内の国の歌枕。今の大阪府枚方市あたり、禁野があった。カタに難いの意を掛ける。

     桜がり;花見。冬にする鷹狩を桜狩に置き換えた趣向。

 [補記] 伊勢物語82段を踏まえる。「今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし云々」。建久6年(1195)2月、九条良経邸歌会での作。俊成82歳、最晩年の秀逸。『長秋詠藻』に文治6年(1190)女御入内御屏風和歌として以下のように掲載する歌を、改作したもの。

野辺に鷹狩したる所

    又もなほ 人に見せばや 御狩する 交野の原の 雪の朝を

②.藤原俊成

 ・時代;平安時代後期、鎌倉時代初期

 ・生誕;永久2年(1114) 死没:元久元年(1204)

 ・官位;正三位、皇太后宮大夫

 ・略歴

 藤原俊成(ふじわらとしなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有識読みで「しゅんぜいとも読む。

 藤原北家御子左流、権中納言・藤原年忠のの子、始に葉室家に養子に入り藤原(葉室)顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左流家に戻り改名した。

 『千載和歌集』の編者として知られる、

【参考情報】

Wikipedia:長秋詠藻
    :藤原俊成