ここでは、街角美術館(伝馬所と郷蔵) について紹介します。

在所:珍古堂前

【ポイント】

①.伝馬所とは問屋場のことを云い、ここ珍古堂横の小川から枚方街道分岐点の間にあった。

②.郷蔵は、江戸幕府の指示で囲米を保管した蔵のこと。

 ・天保7年(1837)の大飢饉で大阪地方も大きな被害を受けた。

  同年大塩平八郎の乱が勃発

 ・天保8年(1837)枚方宿の窮民調査により、幕府に救済を求める。

   緊急避難資金として約50両が支援金として下付

 ・幕府は、軍事上の備蓄と飢饉対応備蓄として「囲米」制度を発足

 ・枚方宿では、天保10年(1839)から備蓄を開始し、明治初頭まで続く。

 ・枚方宿の囲米は、幕府拠出の70石と地元拠出の78石の計148石を保管俗称「蔵の谷」と呼ばれている。

【関連写真】

  片山珍古堂前2013_04_19 金只  伝馬所と郷蔵(1861年)2012_05_13 金只

【補足説明】

①.街角美術館の説明文より

 この付近には、伝馬所と郷蔵がありました。伝馬所とは宿場町の役割の一つである人馬の継ぎ立てをするところで、郷蔵とは納付前の年貢米を一時的に保管するための倉庫でした。

②.中島三佳氏著 「東海道枚方宿と淀川」より抜粋

 天領・枚方宿の「囲米」と「郷蔵」

 江戸時代、幕府および諸藩は、備荒備蓄と米価調整の目的で穀物(主に米)を蓄える「囲米」精度を実施した。

 始めたのは八代将軍徳川吉宗であった。後に寛政の改革を行った老中松平定信は飢饉に備えて江戸・大阪・京都に社倉、義倉を設置させて米穀の貯蓄を奨励した。

 枚方宿では、天明7年(1787)に初めて小規模の打ち毀しが発生。

 天保7年(1837)におきた天保大飢饉では、大阪地方にも大きな被害をもたらし、「大塩平八郎の乱」が起っている。

 枚方宿も例外でなく、幕府は、京都代官小堀主税に命じて天保8年に枚方宿の窮民調査を行う。

 これによると、枚方宿全住民(1577人)の内94%(1486人)が生活困窮者で占められている。

 この調査に基づき幕府に救済を申請し、天保8年5月に銀三貫匁(約金50両)が下付された。

 これを契機に幕府は街道筋の人馬継ぎ立てを円滑に図るために、街道筋に「囲米制度」を導入した。

 この制度は、軍事上の必要から幕府自身が貯穀するものと、飢饉に備えて地域社会が備蓄するものとの二つの目的で発足したものです。

 枚方宿では、幕府の命で天保10年より「囲米制」を開始した。幕府拠出の囲米70石、宿場町(宿場の富裕層)拠出の70石、本陣・旅籠拠出の8石の合計148石と定めら、安政元年(1855)に全ての収穀を完了した。

 囲米は、毎年新米と取り替えられ、その後大きな飢饉も戦闘も発生しなかったため、囲米の貸付が行われたようである。

 この制度は明治に入ってからも続けられ、明治3年の高槻藩への報告によると、御用米高125.6石とあり、備蓄米高は24.5石(101.1石は貸付)とある。設定された石高との差は、運用利殖米である。

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