ここでは、西方寺(中宮東之町) について紹介します。
【ポイント】
①.融通念仏宗の寺院。開創時期は不明、1620年~1624年、円悦上人が住職であった。
②.境内の八幡神宮と春日明神社は明治5年百済王神社に合祀。
③.大正時代の小作争議・農民組合創設そして農民学校の開校に関わる。
④.昭和14年03月01日の禁野火薬庫大爆発で焼失、戦後本堂を再建。
【関連写真】
【補足説明】
当山の開基などの年代は詳らかでないが、古くより存在し、元は観音堂の聖観音により、遠近の人々に知られていたという。
元和6年(1620)から寛永元年(1620)に至る5年間は融通念仏宗の高僧で宗門の興隆に力を尽くした円悦上人が住職であった。
『中宮村明細帳』(書かれた年代は不詳)には、西方寺の境内に観音堂、八幡宮社、春日明神社の存在が載せられているが、八幡宮社、春日明神社は明治5年(1872)、百済王神社に合祀された。
「大正デモクラシー」という言葉は今では歴史の教科書でしかお目にかかれなくなったが、その発端となった小作争議などは枚方の農民が全国の農民運動の中心となっている。大正11年(1922)後の枚方市長で枚方市の名誉市民となった寺島宗一郎らの小作争議に日本農民組合の創設者である賀川豊彦らが応援に駆けつけ、西方寺の本堂を借りて農民学校が開かれ、その後の農民運動に大きな影響を与えた。
昭和14年(1939)3月1日に突然起きた禁野火薬庫の大爆発で本堂などの堂宇が焼失、現在の堂宇は戦後の再建である。