ここでは、護国寺跡 について紹介します。

在所:京都府八幡市八幡

【ポイント】

※ ここ護国寺と石清水八幡宮の盛衰は、日本歴史の流れそのものを私達に教えてくれる貴重な史跡です。

①.貞観元年(859)、奈良大安寺の僧行教和尚が八幡大神の受け入れと同時にこの地にあった石清水寺を改称したのが始まり。

②.したがって、護国寺と本山が一体となって男山を取り仕切った。・・・神仏習合の始まり

③.平安時代に入って、僧侶が力を付け過ぎて、皇室護衛の武家との間に争いが増えた。

④.この争いから皇室は伊勢神宮、武家集団はの平家は厳島神社・熊野三山を、源氏は八幡宮を信仰の対象とした。

⑤.明治維新後は、権力の座から武家集団も降りて天皇を中心とした政治が行われた。

⑥.そのことから、天皇の神格化が推進され神仏分離令が発令され、寺院が全て破却された。

⑦.第二次世界大戦後は、主権は民衆に移ったことから、神社も民衆の信仰の対象となると同時に、過去の遺産は観光の対象へと生まれ変わった。

【関連写真】

 護国寺跡2019_12_16 金只   案内板(護国寺跡)2019_12_16 金只   

 慶応2年(1866に描かれた護国寺)   輪宝に独鈷杵に突き立てた祭祀の跡   

【補足説明】

①.現地説明板より

 石清水八幡宮は、平安時代初め、貞観元年(859)、奈良大安寺の僧行教和尚が、九州の宇佐八幡宮から、八幡神をこの地に遷したのが起源です。本殿が朝廷により建てられた跡、行教和尚はこの地に前からあった山寺を改め「護国寺」と名付けたと伝わります。本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。

 平成22年(2010)の発掘調査で、江戸時代後期、文化13年(1816)に建てられた本堂の柱を支えた礎石の跡が見つかり、その内側には地鎮祭の跡がありました。銅で出来た輪宝に独鈷杵(ドッコショ)を突き立てる天台宗の方式で、八角形に配し、須弥壇を取り囲んでいました。護国寺は再建からわずか50数年後、明治の初めに破却されました。

 護国寺略年表

 ・貞観18年( 876) 石清水八幡宮護国寺の名が正史に見える。

 ・康和5年(1103) 大江匡房、十二神将を造立・寄進。

 ・嘉暦元年(1326) 山下の家からの飛火により焼失。

 ・建武元年(1334) 後醍醐天皇臨席のもと護国寺再建供養。

 ・明応3年(1494) 近くの宿坊の失火で焼失。以後長く再建されず。

 ・延宝7年(1679) 仮御堂(薬師堂)が建てられる。

 ・文化13年(1816) 本堂が再建される。