ここでは、足立寺史跡公園 について紹介します。
在所:八幡市西山1-1
【ポイント】
①.謎多き史跡・・・通説
・寺院発足は、地元豪族が寺院を建立・・・和気清磨より1世紀前
・跡地に和気清磨が寺院再建し、護持神社も併設。
・和気清磨の人徳に庶民が風説を作り、護持神社に和気清磨公と八幡神社を祀った?
【関連写真】
バス停(ひかり)からの公園入口2025_05_27金只
石柱(和気清麻呂公旧跡足立寺史跡)2025_05_27金只
.鳥居と手水舎2025_05_27金只
鳥居と拝殿2025_05_27金只
御利益(足腰の守護神 和気神社)2025_05_27金只
本殿覆屋2025_05_27金只
右社殿:和気清麻呂公、左社殿:八幡大神2025_05_27金只
東出口からの和気神社全景2025_05_27金只
西山廃寺(足立寺)中世建物跡2025_05_27金只
西山廃寺(足立寺)三重塔跡2025_05_27金只
公園東側の出口2025_05_27金只
公園内手洗い所2025_05_27金只
【補足説明】
①.和気神社由緒書より抜粋(和気清麻呂公)
祭神の和気清麻呂公は道鏡政権下の権力におもねらず、宇佐八幡大神の神託を奉じて正しき皇統を護り、桓武天皇の下では平安京の造営に絶大な実務手腕を発揮し、また、学問を奨励し、学校建て、様々な温情を施して民衆から慈父のごと慕われるなど、有能にして篤実、しかも学識に富んだ清廉な官吏として世に知られています。
清麻呂公を祭る神社としては、当社の他、京都御所の近くに護王神社と生地の岡山県和気郡和気町に和気神社が鎮座。和気町役場の正面には、高さ7mもの清麻呂像が、また、山陽新幹線和気駅が東に壮大な記念碑が建っている他、大分県宇佐神宮にも本殿脇の建物内に清廉な御像が安置されている。
特に当地では、「道鏡に両足を切られ海に流された清麻呂公が宇佐の浜辺に漂着、猪の背に乗って宇佐宮の神前に至り、涙ながらに神に祈ると足が元どおりに生えて歩けるようになった。そこで清麻呂公は、その御礼に男山に寺院を建てた。それが、足立寺である。」との伝承から、古来「足」の怪我や病気に霊験あらたかな神様として信仰されている。
②…現地案内板(西山廃寺(足立寺)三重塔跡)
江戸時代に作られた「山州名跡」などの記録によれば、石清水八幡宮の西南方の山中に。弥勒菩薩をまつる寺と和気清磨を祀る神社があったよいい、この寺は、奈良時代に和気清磨が弓削道鏡の命で、九州の宇佐八幡宮へ行き、道鏡を追放せよという神託を報告したため、両足を切られて流刑にされたが、八幡宮の助けで両足が元どおりになったので足立寺(そくりゅうじ)という寺を建てたと伝えられてきた。
このあたりに古代寺院跡があることは早くから知られていたが、造成開発のため、昭和43年から48年にかけて何度かの発掘調査を行った。元の位置はここから西南50mの所で、海抜35mから60mの急な斜面を削って東に堂、西に塔が建てられていたが、遺構はすべて約3mの厚い砂の下に埋まっていた。
塔は一辺410mの基壇の上に、約5.2m四方(3間✕3間)の大きさで、周りの礎石はほぼ原形をとどめており、大きさからみて高さ25mぐらいの三重塔であろう。中央の三角形の巨大な石は、塔の心柱を支え塔心礎(とうしんそ)で、直径36cmの枘穴(ほぞあな)があり、北側に突出した小さいくぼみは舎利孔(しゃりこう)である。こうした形式の心礎は全国で湯いるの珍しいもので、貴重な文化財である。
ここから出土したものは、大部分は奈良時代前記(白鳳時代8世紀中頃)から、平安時代後期(12世紀)までの瓦で、大部分は奈良時代末から平安初期のもので、〇仏(せんぶつ)、二彩壺(にさいつぼ)なども出土している。
出土品からみて、この寺は和気清磨よりも100年も古い頃にこの地方の豪族によって建立され、平安時代の終り頃土砂の下に埋まったことがわかる。
③.現地案内板(西山廃寺(足立寺)中世建物跡)
西山廃寺(足立寺(ソクリュウジ))が建てられた当寺の建物は、どのように並んでいたかはわからないが、三重塔の東側に残っていたこの建物は一辺10mの樹檀の上に、8.5m四方(3間✕3間)で、北側中央の間には階段がとりついていたらしく、南北朝時代の檜皮葺のお堂である。元の寺とどのような関連があるのかよくわからないが、この建物の一層下には、奈良時代の礎石や瓦が埋まっていたから、元の建物がこわれてからそのあとへ新しくこのお堂が建てなおされたものとかんがえられる。
④…現地案内板(バラ時代の瓦窯(半地下式平窯)
西山廃寺が作られた頃には、この周辺に瓦や土器を焼いた窯が築かれていたが、この窯は、そのうちもっともよく残っていた瓦窯復元したものです。
手前の舟底形の部分は燃料をもやす所(燃焼部)で、たき口には2つの意思を立ててせばめている。奥の一段高い所が焼成部で、燃焼部との間は窓のついた障壁で区分されている。床には7本のロストルがあって、製品をこの上にのせて、燃焼部からくる炎はロストルの間の煙道を通って奥壁の下にある3つの煙突から外へ出ていくようになっている。三方の壁には古い瓦を小口積みにしてさし込み、天井は焼き上った瓦をとりだすときに、こわしたままになっていた。
瓦を焼く時は、ロストルにまたがるように瓦を立てて並べ、一時に400枚ぐらいを約1週間かかって焼き上げた。そのうち約20%が不良品になったと推定される。
この窯は、奈良時代末から平安時代の初めにかけてのもので、3本の煙突をもつ構造は全国でも珍しいものである。
【参考情報】
インターネット:和気神社(足立寺史跡)