ここでは、鵲橋 について紹介します。
在所:新町一丁目6・・・天野川に架る府道13号線の橋
【ポイント】
①.過っては、江戸幕府は架橋を許可しなかった。
②.御三家紀州の参勤交代が枚方宿を通過するに至って仮橋の架橋が許可された。
③.仮橋は壊れるまで通行料をとって使用された。・・・錢取橋とも呼ばれた。
④.明治に入って、京街道が国道と位置づけられ木橋が付け替えらた。その時「鵲橋」と名付けらた。
※ 鎌倉時代、淀川を下った中務内侍の歌に因んで鵲橋と命名。
「これやこの 七夕つめの 恋渡る あまの川原の かささぎのはし」
⑤.昭和7年に上流東見附跡の木橋を廃止し、コンクリート製に改修。
⑥.平成8年3月、現在の鋼鉄製の橋に改修。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地説明板(天野川とかささぎ橋)より
天野川は、四条畷市田原を源流として磐船渓谷を刻み、交野市・枚方市を流れ淀川に合流する。川砂白くゆるやかな流れは古くから天上の銀河と見なされ、在原業平をはじめ平安貴族のあこがれる歌どころでもあった。
いつの頃かこの川に橋が無かった。古代中国の棚機(七夕)説話によると、天の川にかささぎが群れあつまって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをすると言われている。この説話にちなんでかささぎ橋と呼ばれるようになった。鎌倉時代、淀川を下った中務内侍は、「これやこの七夕つめの恋渡るあまの河原のかささぎのはし」と詠んだ(七夕つめ=織女)。
江戸時代、かささぎ橋は京街道の橋で、「河内名所図会」にはたくさんの橋脚を持ち欄干のない長い土橋が描かれている。
明治時代の道路制により、京街道は国道2号線となり(後に同1号)、かささぎ橋は国道橋に昇格した。昭和7年、下流に国道が新設されたのに伴ってかささぎ橋も移り、近代的な鋼鉄製の変わった。60年間の役割を果たし、今回の架け替えとなった。
②.南場氏のガイド資料より
江戸期の資料「岡新町村明細帳」によると、かささぎ橋の名はなく天野川橋と記載されており、紀州候通行のときはその上流に専用の仮橋を架けたとある。かささぎ橋は明治になって名付けられたのでは?。<「東海道枚方宿」213p>
橋のないときは助郷村(スケゴウムラ)以外から徴発された川越人足が人と荷物を対岸へ渡した。人足への駄賃が必要であったので、払わない人は自分の足で渡った。
明治になり木橋が架けられたが、この時、鵲橋の名称が付けられ昭和7年現在地に架け替えられた。 明治時代の道路制により、京街道は国道2号線となり(後に同1号)、かささぎ橋は国道橋に昇格した。
昭和7年、下流に国道が新設されたのに伴ってかささぎ橋も移り、近代的な鋼鉄製の橋に変わった。その後、60年間の役割を果たし、今回の架け替えとなった。
【参考情報】
Wikipedia:鵲橋
LocalWiki :天野川