ここでは、鷹塚山遺跡 について紹介します。

在所;鷹塚町31 鷹塚山配水場

【ポイント】

①.鷹塚山の地名は、惟嵩親王が愛鷹を葬ったことに由来すると伝えられている

②.当地は鷹塚山遺跡と呼ばれている

 1).弥生時代後期の高地性集落で、築造当時は、摂の連山まで望めた。

 2).出土品

   ・高杯(タカツキ・鏃(ヤジリのほか数多くの土器・石器・金属器類や炭化米

   ・弥生時代後期の吉備地方に集中する分銅形土製品の出土(瀬戸内地方との通交)

   ・直径約7cmの傍製小型重圏文鏡

 3).数棟の竪穴式住居跡や木棺墓

③.タンク付近は小型の前方後円墳跡

【補足説明】

  配水場内の碑2014_10_23 金只  鷹塚山の碑2014_10_23 金只

①.原意案内板より

 鷹塚山遺跡は、生駒山地から淀川と天野川との合流点に突き出すように派生した枚方丘陵の最北端、標高50~60mの地点に立地している。

 この遺跡は、弥生時代後期の高地性集落で、築造当時は、淀川はおろか北摂の連山までのぞむことができたはずである。

 昭和43年からこれまでに十数次にわたり発掘調査が実施され、数棟の竪穴式住居跡や木棺墓などが検出されている。

 出土遺物には、壺・高杯(タカツキ)・鏃(ヤジリ)のほか数多くの土器・石器・金属器類や炭化米などがあり、中でも弥生時代後期の吉備地方に集中する分銅形土製品の出土は、瀬戸内地方との通交を伺わせる。また、直径約7cmの傍製小型重圏文鏡(ボウケイコガタジュウケンモンキョウ)が出土し、注目を集めた。

 鷹塚山の地名は、惟喬親王が愛鷹を葬ったことに由来するとつたえられている。

                               2000年03月 枚方市教育委員会

②.堀家啓男氏資料より

 渚元町に、渚院跡の石碑と藤原業平が桜を詠んだ歌碑がある。平安時代、渚院は文徳天皇の第1皇子であった惟喬親王が、天皇になれなかったつらさをまぎらわすため業平らと景色を愛でて若き日々を送ったところとされたところとされる。親王が渚院を基に枚方、交野一帯の交野ケ原において四季の梅や桜、紅葉を観賞し、また鷹狩をしたという伝承が残っている。「河内名所図会」(享和元年(1801)刊行)に鷹狩の図があるように、後世の江戸時代にもこの伝承は有名であったようである。

 親王は可愛がっていた鷹が死んだとき、交野ケ原の高台であった枚方丘陵に鷹を手厚く葬ったという。この地が現在、枚方市水道局の鷹塚山配水場がある場所とされてきた。

 昭和20年代後半から30年代初め、この高所に昭和初期に整備された旧高区配水池が残っていたころ、確か「鷹塚」の碑があったような記憶がある。その頃の写真は「枚方宿の今昔」(宿場町枚方を考える会発行)に掲載されている。秋の初め、現地を訪ねてみるとなんと配水場の入口鉄柵の向こう斜面に、台石がなくなった状態で保存されていた。水道局の話では、碑文字は「鷹塚」でなく「鷹塚山」だそうで、昭和6年(1931)に秩父宮が万里荘に宿泊されたころ、撮影された写真の1枚に碑が写されているということであった。そうなると80年以上の歴史がある貴重な碑となる。

 明治44年(1912)、京阪電車の乗客増をねらって開かれた「観光くらわんか」と関連して「達磨会」が催した大茶会では、枚方町の名所7カ所を巡るうちの第3席が鷹塚山で、鷹塚山の松林に本部の白旗掲げ、善哉をふるまい、煎茶席を設け、そのあと土器投げの余興をし、景品に吉向焼を渡したとのことである。旧高区配水池が出来る前のことであり、親王の鷹ゆかりの地として、そのころ「鷹塚山」碑が、有志の手で建立されたのであろうか。あたりは住宅開発がすすみ、鷹塚山の昔の風情はほとんどないが、母校、枚方小学校の校歌に詠われたこの地の伝承を永久に残すため、碑の台付き復元保存と説明板の設置を期待したいと思う。

 鷹塚山は弥生の遺跡で、丘陵の最も高い(海抜67m)見晴らしのよい所で、伊加賀から倉治への道が通ることから古墳であると思われてきましたが『河内誌』には惟喬親王の愛鷹を埋めた鷹塚とされてます。

 しかし、昭和43年に枚方市文化財調査研究会の発掘調査が実施されますと、なんと弥生時代後期の高地性集落の遺跡であることが明らかになりました。

 数棟の住居跡や土器・鉄鍬などが出土するなか、大阪では珍しい「分銅型土器製品」があらわれました。この素焼きの土製品は、呪者が首にかけて信仰用に使われたのか、その用途ははっきりしませんが、「吉備の人」が作ったことはたしかです。150kmも隔てた吉備地方と枚方が淀川・瀬戸内海の水路によって交流していたことがわかります。

 また、畿内の弥生遺跡からはじめて和製の小型銅鏡(直径7cm)の「重圏文鏡」も集落内から出土しました。墓の副葬品というイメージがない。和製の鏡が出土したことは興味深い。

【参考情報】

Localwiki :惟喬親王伝説