大畑才蔵が築いた、大規模な農業用水路「小田井用水」にかかる堰 小田井用水は、和歌山県北部に位置し、現在は紀の川右岸の河岸段丘に広がる水田592haを灌漑している用水路です、小田井用水ができるまでこの地域の灌漑は、北の和泉山脈から流れる沢水やため池によって小規模に行われていましたが、常に水不足に悩まされていました。江戸時代、財政事情の厳しい紀州藩では2代藩主徳川光貞の時に打開策としてコメの増収を図る改革を進め紀の川の水を利用する大規模な新田開発を計画しました。
用水路の工事は1699年(元禄12年)の藤崎用水の開削に始まりました。
1707年(宝永4年)5代藩主、徳川吉宗(のちの8代将軍)の命令をうけ、大畑才蔵がこの小田井用水を開削しました。小田井用水は紀の川に平行して、紀の川右岸の等高線を巡るように開削されたため、途中にいくつもの河川の谷間と交際する難工事でしたが、渡井(水路橋)や伏越(サイフォン)による立体交差で克服しました。小田頭首工から農業用水を取り入れ、橋本市、かつらぎ町、紀の川市、岩出市にまたがる全長約30㎞におよび用水路により1,000haを超える水田を創り出しました。
 その後、時代と共に改修されていますが、開削以来300年間農業用水を流し続けており、現在は地域の人達の憩いの場として親しまれ、防火用水としても役立っています。また、小田井用水は、平成18年2月に農林水産省の「疎水百選」となりました。
 明治から大正時代にかけて改修された水路橋(龍之渡井、小庭谷川渡井、木積川渡井)とサイフォン(中谷川水門)の4施設が、和歌山県内の土木構造物では初めて平成18年3月に登録有形文化財(文化庁)となりました。
この小田井用水を開削した大畑才蔵は、紀の川の水を北側へ引くため、綿密な計画を立て、人数や工事日数を計算しました。

用水路開削のため、才蔵は、1697年に「水盛台」という精密な測量器具を考案しました。まさに、農業土木技術のイノベーションを興したのです。小田井用水、藤崎井用水の開削は、1/3,000から1/5,000という非常に緩やかな水路勾配を作ることが、この「水盛台」で作ることができました。
 農民のため献身した才蔵の偉業をたたえる「彰功乃碑」が大正15年に粉河寺境内に建立され以来10年ごと、小田井、藤崎井の両用水の関係者により祭が営まれています。橋本と粉河、まさに、紀の川の流れと大畑才蔵がつくった結びつきであります。 2017年。世界かんがい施設遺産として登録されました。http://www.maff.go.jp/j/nousin/kaigai/ICID/his/his.html

頭首工の仕組み

頭首工(とうしゅこう)は、用水の取水にかかわる一連の施設全般を指す言葉で、用水路の「頭首」に存在する取水用の堰と用水の取り入れ口、魚道などを総括している。

-Wikipedia より-

 

 

取水口が見えます

 

 

小田井堰魚道

小田井堰上流からの近景

小田井用水取水口

 

通常時洪水時

過去の小田井堰

小田井堰の概要


小田井用水地図