1.隅田一族の会合における献立
・隅田一族が、会議をする際に食べた献立の内容が、葛原家文書 「献立注文」に記述されています。
ゑひ(海老) 、こいさしミ(鯉刺身) 、くしら(鯨) 、からすミ(カラスミ)、まつたけ(松茸) 、さたうやうかん(砂糖羊羹) 、まなかつほさしミ(マナカツオ刺身)、あわひしほ(鮑塩) 、くらけ(クラゲ) 、このわた(海鼠腸) 、すゝき(鱸) 、たこ(蛸)、たいのこ(鯛の子) 、かまほこ(蒲鉾) 、くるミ(胡桃) 、のり(海苔)
山の中で、豪華絢爛な海の幸が運ばれていたことは驚きです。
さて、これらの海の幸はどこから運ばれてきたのでしょうか。
そもそも、隅田一族は、石清水八幡宮に建立した御願三昧院の料所として成り立っており、京都と深いつながりがあったと推定されます。
京都から橋本までの道のりは後に書くこととして、まず、京都まではどの道を通って海の幸は運ばれてきたのかを辿っていきたいと思います。
2.敦賀から琵琶湖へ
敦賀は、なぜ「天然の良港」だったのか。周囲を陸地に囲まれた内海や湾で、これらの条件を自然のうちに満たす場所を「天然の良港」と言われています。敦賀港は、三方を山に囲まれていました。敦賀湾の奥にある敦賀港は、敦賀津とかつて言われていました。
敦賀港は、古代から、日本海と太平洋を結ぶ重要な結節点として栄ました。中世・近世には北前船の主要寄港ともなりました。北海道、山陰、朝鮮半島、アジア大陸、ロシア帝国、琉球王国、京都、奈良、大坂、尾張、三河、伊勢への出発点であり到着点、でもありました。
七里半街道
「標高383mの国道161号上に位置する峠である。別名として山中峠(やまなかとうげ)、愛発越(あらちごえ)、海津越(かいづごえ)とも呼ばれる。先に挙げた別名の由来は山中峠は峠のある福井県側の地名から、愛発越と海津越は麓の地名からとられたものだが、七里半越の由来はかつての街道の起点であった敦賀市疋田と峠道が平坦になる高島市マキノ町海津までの距離が約七里半(約30km)であったことに由来する。またこの峠道自体も七里半街道と呼ばれる。」
Wikipedia より CC BY SA ”七里半越"より
1)気山津
久々子湖にある入江の気山津も「天然の良港」と呼ばれていました。
2)西津
小浜湾の奥にある西津は、若狭街道から琵琶湖の木津へ行く港です。
九里半街道
小浜から琵琶湖北西岸の今津(現・高島市今津町)へ抜け、琵琶湖上の水運を経由して大津まで行き、京都へ至るルート[3]。古代は勝野(現・高島市勝野)や木津(現・高島市新旭町)などが、鎌倉時代以降は今津を主な水陸中継地とした。のち、豊臣秀吉が若狭往還の荷物をすべて今津経由とするなどの庇護を受けたほか、若狭街道が朽木方面へ折れる道をさらに直進し今津へ至る道(九里半街道[注釈 2])が整備され、伏見城築城のための資材輸送にも利用された。なお、湖上から京都への陸揚げは山中越を介して最短となる坂本が利用されたが、のちに秀吉が伏見や大坂への利便性が高い大津を保護し、坂本などから移した船をあわせて大津百艘船[注釈 3]を組織した。
CC BY SA Wikipedia ”鯖街道"より
3.琵琶湖の水上交通
琵琶湖の水上交通は、港しか特定できていません。もし、ご存知の方がいらっしゃいましたらルートを地図の上に落としていただければありがたいです。
琵琶湖は、湖ではないのでしょうか
国土交通省は、琵琶湖を一級河川と位置づけています。
日本海 敦賀と結ぶ運河計画が古来から何度も浮上し、消えました。
南側の琵琶湖疏水は、運河となりました。
舟使って航行していました。
京都と地方を結ぶ水の道
-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-
1.国家貢納物の輸送と琵琶湖水運
「京都が都になる以前,奈良が平城京として都であった時代から,中央の政府は,国家の維持や財源確保の目的で,国内の各地域から国家貢納物を徴収していました。国家貢納物の種類は,おおざっぱにいって(地図1),日本海側や西日本の地域からは米などの重い物資が多かったのに対し,東日本の太平洋側は絹や綿といった比較的軽い物資が多いのが特徴であります。これは,日本海や瀬戸内海が航海に適していたこと,さらに琵琶湖の水運が利用できたことがあげられますが,一方,東日本の太平洋側は波も荒く,航海に適さず,物資は陸上輸送されたためと言われています。都が京都にうつった後,10世紀初めに『延喜式』という法令集が編纂されましたが,そこには,その当時の国家貢納物の輸送の実態もよく記されております。ここには,都に集まってくる国家貢納物の内容や運賃,さらには輸送ルートまで,明確に記されています。
(地図2)をご覧下さい。『延喜式』によりますと,北陸地方の貢納物については,敦賀(現在の福井県敦賀市)へ海路輸送され,そこから琵琶湖の北岸の町である塩津へ陸送され,琵琶湖の水運を利用して大津へ運ばれ,後は陸路で京都へ運ばれました。ちなみに,塩津と大津の間は,航路にして約60キロあります。また,琵琶湖の北西に位置する現在の福井県西部に当たる若狭国からの貢納物については,陸路琵琶湖の西岸の勝野津(現在の高島町)と呼ばれる場所へ陸送され,そこから琵琶湖水運を利用して大津へ回漕されております。
また,東日本から運ばれる貢納物は,主として「東山道」という東日本から来る主要な街道を通りまして,琵琶湖の東の朝妻(現在の米原町)に集められ,そこから大津へ回漕されました。
このように見てきますと,琵琶湖においては大津が物資の集散地として重要な役割を果たしていたように見えます。ちなみに,大津は,平安京を造った桓武天皇の曾祖父にあたる天智天皇が大津京として,667年に都と定めたところで,672年に大津京が廃絶してからは古い港を意味する「古津」と地名を変えていましたが,京都が都となったことで大津がいわば京都の外港の役割を果たすことになり,再び大津と改称されました。」
2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運
「この『延喜式』という法令集が編纂された10世紀以降,それまでは国の土地であった場所を,有力な社寺や貴族が私的に領有するようになり,荘園制度が発展してきます。荘園制度のもとでは京都在住の貴族や有力社寺が,日本各地に領有している荘園から,財源としての年貢を徴収するようになりました。荘園年貢は,米が主体でしたが,ところによっては,塩,絹,綿,鉄等もあり,年に一回の割合で送られてきました。
ここにおいて,輸送物資は国家貢納物から荘園年貢へと転換いたします。
では次に,荘園年貢の輸送と琵琶湖水運の関わりについて紹介します(地図1)。
日本海側の越後,能登,加賀,越前(今でいう新潟県,石川県,福井県にあたります)からの荘園年貢は,海路敦賀または小浜へ輸送されまして(地図2をご覧下さい),今度は琵琶湖の北の塩津・海津・今津などの港に陸送され,琵琶湖を船で大津,坂本に着け,更に馬や車で京都に運んだと言われています。なお,当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。
例えば,京都の東寺が領有していました現在の小浜市にある若狭国太良荘からの年貢は米でしたが,太良荘から陸路を琵琶湖の北西の今津に送られた後,琵琶湖水運を利用して大津へ運ばれ,再び陸路で京都の東寺へ送られました。
また,比叡山にある延暦寺のお膝元坂本(現在は大津市内)は,延暦寺領の荘園年貢が集まる場所として賑わいました。延暦寺は8世紀末に開かれた天台宗の密教寺院ですが,全国に多くの荘園を持っていました。
このように琵琶湖の水運が活発になってきますと,航行する船から,関税を意味する関料を徴収する目的で,税関に当たる関所が作られるようになります。関所の多くは延暦寺が領有し,徴収された関料は延暦寺の建物の造営費に充てられました。ちなみに,15世紀には,延暦寺の領有する関所が琵琶湖の湖岸に11箇所存在したといわれており,徴収された関料は積み荷に対し,おおよそ100分の1が徴収されたといいます。
また,これも今は大津市内になっていますが(地図2),堅田と呼ばれる場所は,琵琶湖のもっとも狭くなっている場所に位置しておりまして,11世紀頃から船の渡し場となるなど,古代より交通の要所でありました。この堅田では,「堅田衆」と呼ばれて,琵琶湖を航行する船の安全を保証するみかえりに,警護料を徴収しているような人々も存在しました。それゆえに,「堅田衆」は琵琶湖の水上交通における大きな特権を持っていました。
ちなみに,ヨーロッパなどですと,周囲に水を廻らした中世の環濠都市が今でも残っておりますが,中世の堅田も,琵琶湖の水を引き込んだ環濠都市的な景観を有していたといわれております。」
CC BY 宮内庁ホームページ「第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演」より
4.古代の大和湖と河内海
上の図は、独立行政法人防災科学技術研究所の表層地盤増幅率 軟弱地盤が視覚的に理解できる。赤い部分が軟弱地盤で水が滞留していたものと思われる。
橿原神宮が、藤原京が、法隆寺、三輪山、當麻寺が大和湖(奈良湖)の水の辺りにあったことがわかります。
河内海に抜ける道は、現在の大阪府柏原市 亀の瀬から船を乗り換えて渡ったたのだと、大和湖の水も時間とともに河内海に抜けていったと伝わっています。
5.奈良とは
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』[6]に記されている」
武寧王の子孫
523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。
CC BY SA Wikipedia より ”武寧王”
奈良の漢字表現は、奈良・那羅・平城・寧楽 と書かれています。寧楽は、武寧王と同じ字が使われています。
数度の火災により百済寺・百済王神社は次第に衰退した。後に奈良の興福寺の支配下に入り、再興が図られた。現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものである。
CC BY SA Wikipedia より "百済王神社"
6.環日本海史の中の橋本
富山県が出している環日本海・東アジア諸国図というのがあります。
右の地図は、百済から北海道へ行ったであろう、また北海道から百済に向かったであろう海路の想像地図です。
日本海を、行き来したのは江戸時代に発達した北前船のような大きなものではなかったはずで下の図の中央にある羽賀瀬船が中世から近世にかけて日本海を航行したのではないかと思われます。古代については、一本の巨木を刳り抜いた堅牢なモノコック構造の刳舟であり、縄文時代前期には外洋での航海が可能な丸木舟が存在した。 (CC BY SA Wikipedia "船")
江戸時代から明治時代にかけては北前船が活躍しました。
まず、古代の船は日本海をどのように航行していたのかですが、帆がない船だったので海流と櫓を頼りに航行したのではないかと思われます。
帆がない船ですが、海流は海の面で風が吹かなければ発生しない仕組みです。風だけではないのですが、温度や塩分濃度の密度の違いにより海流が発生することが知られています。下の海流を見ると百済から対馬海流乗って北海道あるいは樺太まで駆け上がったのかも知れません。
・羽賀瀬船は、帆がありますので航行速度も上がったことでしょう。
季節により吹く風の向きがちがうのですが、向かい風であっても帆のある船は航行することができたのではないかと想像します。
下の図は、ヨットの風の吹く向きによって帆の向きをかえ船の向きを変えれば航行ができることがわかります。
例えば、北前船の一年の航行は、
1年1航海の場合
-
下り(対馬海流に対して順流)
- 3月下旬頃、大坂を出帆。
- 4 - 5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。
- 5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着。
-
上り(対馬海流に対して逆流)
- 7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。
- 8 - 10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。
- 11月上旬頃、大坂に到着。
北陸など各地の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大坂に戻ってきた。
CC BY SA Wikipedia より "北前船"
北前船の船乗りたちは、風に名前をつけて呼んでいたと言われています。 - 風の博士 吉野正敏氏が分類 -
南から吹く系統の風を カミカゼ タカイカゼ クダリ
北から吹く系統の風を シモカゼ ヒクイカゼ ノボリ
と言っていました。4月にシモカゼをつかみ北上し、8月頃にカミカゼをつかみ南下する。
日本海は、古代から近世にかけて、海上交通のメッカであり隆盛を極めたのでした。
海上交通は、物流を運ぶだけでなく、人を運び、元来住んでいた場所で必要だと思われるものを栽培し、漁をし、作ったのでないかと思われます。
じつは、海上交通は 「海の道」ではなく、古来から「風の道」を人々は感じ取り交易を続けていたのではないでしょうか。
北前船の荷
下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。
- 蝦夷地の人々への日常生活品(酒類・飲食品類・衣服用品・煙草)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)・蝋燭(原産地は瀬戸内)米・酒など
上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で下り荷ほど種類は多くない。鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。特に昆布は大坂から薩摩を経て、沖縄経由で中国にまで密輸出された。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、中国からは漢方の材料を輸入して、富山売薬を支えた。北海道、越中、薩摩、琉球(沖縄)、清(中国)までのルートを「昆布ロード」[5]ということがある。
CC BY SA Wikipedia より "北前船"
7.京都から伊勢街道まで
大津街道から奈良街道を通り、中街道(下ツ道)を通り、伊勢街道にあたり、それを西に進んで行ったのではないでしょうか。