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1.時間の歴史

1)人類以前から古代まで

橋本市菖蒲谷に断頭露頭があって、大阪層群菖蒲谷層(紀ノ川沿い)に和泉層群や三波川変成岩がのし上げて逆になった活動を「菖蒲谷時階」というのが見ることができます。中央構造線の北側に後期白亜紀(K2)の花崗閃緑岩の地質を見ることができます。御所市の国道24号線の東佐味の交差点を中心に大きく東西に花崗閃緑岩地質が奈良盆地を形成するため割れているようです。つまり、和歌山県内を国道24号線は、東西に走りますが、奈良県のこの東佐味を起点に南北に国道24号線が走ることになります。この東佐味のあたりには、たくさんの神社仏閣があります。これほど神社などが集まっているのは、古代の人は地質の変化を感じ畏れを鎮めるために建立したのかも知れません。

御所市の神社

  • 下ツ道
    7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る大道・下ツ道として整備された。見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。橿原市から大和郡山市にかけては、現在の国道24号の約250m西方に並行する。
    北は、那羅山(ならやま)の平坂(ならさか)を越えて山背道(やましろのみち)になり、南は、軽(かる、橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線道で、檜隈(ひのくま)からは西南に向かう巨勢道となり、宇智(うち)を経て
    紀伊国境の真土山(まつちやま)を越えると紀ノ川沿いの木道(きのみち)に達する。
    奈良時代には飛鳥・藤原京と平城京をまっすぐ繋ぐ大道として盛んに利用されたと思われる。しかし長岡京、平安京への遷都の後は衰退して維持されなくなった。その道路敷は現在、一部で寺川などの河道に利用されている。 -Wikipedia より

2)中世

高野山に参詣するために7つの道があったといわれていますし、時間軸とともに高野山への道のルートも遷移したのではないかと思われます。

  • 高野山への道

平安時代の弘仁10年(819年)頃より空海(弘法大師)が修行の場として開いた高野山への道、京都からどんな道のりだったのでしょうか。

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転法輪寺 (五條市)  (Wikipedia) に空海が辿った伝承が書かれています。

 弘仁6年(815年)、真言宗の開祖、弘法大師空海が42才の時に、都であった平安京を離れて「修禅の為の道場を探したい」と言って旅に出た。 その旅の途中、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)にて道に迷う。その時「南山の犬飼」と名乗る一人の狩人が現れ、その狩人が連れていた白黒の二匹の犬 (二匹とも黒色であったという伝もある)を空海に貸し与えて無事に目的の土地である高野山へとたどり着いたという伝承がある。 -Wikipediaより-

  • 空海が、宗教都市を作るための水銀鉱脈と中央構造線と丹生神社との関係

     フォッサマグナ・中央構造線を行く: 断層沿いの交易路と文化流通の軌跡塩の道は丹生の道

      空海は山師だったのでは。

  • 中街道(近世)
    奈良から櫟本、丹波市を経て桜井に至る道が「上街道」、郡山から高田に至る道が「下街道」に対し、その間を通る道が「中街道」と呼ばれるようになった。
    平安京遷都後は平城京自体が衰退し、町の中心部は東の若草山の麓に移り、かつての下ツ道をたどる道筋も少し東へずれることになる。中世以降の中街道は奈良町の西から八木(橿原市)、古瀬(御所市)を経て北宇智(五條市)で下街道と合流する道筋となる。奈良から八木まではほぼそのまま国道24号に沿っている。

Wikipedia より

CC-BY-SA Wikipedia

この上の図を見ると奈良県の中心部の川の流れは、全て大和川に収束しているように見えます。

  • 都から熊野への道

熊野について:紀伊山地は奈良や京都の都との間を隔てていました。辺境の地。辺境を意味する「隅(くま)」。この地域を「クマノ」と呼んだと言われています。また、「神の野」とも言われています。

平城京から藤原京に歩く道が、ここに示されています。下ツ道を通っています。藤原京から吉野への道。

吉野からは、大峯奥駈道が熊野まで南に真っ直ぐ伸びる道です。当時の貴族たちはこの道を本当に歩いたのでしょうか?

十津川路、北山路はどうだったのでしょうか。

十津川路は、紀の川水系の丹生川と、新宮川水系の熊野川に沿って歩いたのでしょう。

北山路は、北山川に沿って。

川と道は、土地と土地を結ぶための流れを作る地球の上の血管だということがわかります。

3)近世

塩問屋

「近世初期に町が開かれた和歌山県橋本市の橋本は、町を開いた高野山の僧応其が秀吉から塩市の独占的な権利を認められ、これが近世を通じて町の経済的に支え た。当時さして広くはない町中には20軒余の塩問屋が軒を並べ、併せて材木問屋等も見ることができた。つまり近世における橋本は問屋を中心とする在郷町と して発展したことが明らかとなり、現在の町並みには、近世に建築されたこれら問屋の建築遺構も幾棟か現存することが一連の調査で明らかとなった」

今の街並みが近世にできあがったことが書かれています。 

中世の街道の上に、近世の橋本ができている。

時間が街道の位置を変え、新しい街道ができあがり昔の街道の上に新しい街道が重なり合いその街道を中心に橋本ができあがってきたことがわかります。

応其上人が、秀吉とも上手に渡り合っていた。信長は高野山征伐の間に本能寺で死にましたから。

秀吉は信長ほど寺を軽視することはできなかったかも知れません。

"木食応其坐像" by Yanmomo - Own work. Licensed under CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons -

橋本で塩を積み替えることで橋本が栄えたのは間違いがないです!

    塩のリンクは、紀伊国名草地方の塩のことが綴られています。

   #近世の交通機関

4)近代

     国道24号は、京都府京都市から奈良県奈良市を経て、和歌山県和歌山市に至る一般国道が1887年(明治20年)ごろに国道として指定されました。 主な経由都市として、奈良県奈良市、橿原市、五條市、和歌山県橋本市があります。国道1号、国道163号、国道165号、国道26号、国道42号があります。 起点は、京都市下京区烏丸五条交差点。終点は、和歌山市県庁前交差点です。  

5)現代

国道24号線のバイパスとして、京奈和自動車道が建設中です。古代から現代にいたる道の系譜は、位置を左右にずれながらほとんど同じルートが選定されています。

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近畿地整管内地域高規格道路指定路線図

近畿地整管内地域高規格道路指定路線図の図を見ると、京奈和自動車動が、京都、奈良、和歌山、将来には四国4県、兵庫、大阪とも繋ぐ、大環状道路になることが期待されます。東海南海自動車道や五條新宮道路が整備されれば、五條市とともに橋本は、この大環状道路の東西南北を繋ぐジャンクションとしての機能が発揮されます。

 


2.空間の地理

  • 高野山

高野山の開山と平安京

奈良時代も、平安時代も、橋本は、京都や奈良との関わりが大きい。 府県境という、枠を考えると時間も空間も把握できません。枠組みを越えなければ、見えているものも見えなくなります。

 

高野山 開創は816年。このころ平安京と大和の国の道はどうだったのでしょうか。

平安京からは、中街道 (下ツ道)を通ってきたのではないかと類推できます。

下ツ道があったから、空海は高野山までやってきたのです

吉野から、高野山から本宮を目指す道がそれぞれありますね。道が先なのか、街が先なのか。京都、奈良、明日香、本宮が

南北に一直線なのが、今更ながらドキドキします。

 

街道も基軸に 歴史の中の都市グリッド

古代の日本人はピタゴラスの定理を使っていた明日香、平安京、平城京、本宮は、下ツ道で結ばれていたということでしょうか。
 

夜の星よりも、昼の太陽で測る方が現実的です。

  • 南北を縦に繋ぐ線

国土地理院地図

平城京から熊野本宮大社 旧社地「大斎原」に線を引き国土地理院地図にレイヤーを重ねあわせると、ほぼ東経135度45分から135度48分の中に古来からの主な都が入ってしまい。経度線と全く平行に都を配置していったのではないかと想像してしまいます。

  1. 平城京跡 東経135度45分45.07秒

    2.平安京跡 東経135度48分5.58秒

    3.藤原宮跡 東経135度48分25.90秒

         4.熊野本宮大社 旧社地「大斎原」 東経135度46分27.83秒
 

高野山開創の道

  • 高野七口

和歌山県街道マップ「高野七口」

高野街道、京大阪道

高野街道不動坂口道を歩く

詳細はWikipedia「東高野街道」を参照

前身は平安京または長岡京への官道だったと推定される。京から高野山への参詣路として使用されるとともに、河内国を南北に貫く数少ない街道でもあった。

山城国八幡(京都府八幡市)-洞ヶ峠-河内国田口村(大阪府枚方市)-郡津村(交野市)-中野村(四條畷市)-豊浦村(東大阪市)-楽音寺村(八尾市)- 安堂村(柏原市)-国府村(藤井寺市)-誉田村(羽曳野市)-富田林村(富田林市)-長野村(河内長野市)[西高野街道と合流]


  • 鉄道

     和歌山線  -Wikipediaより-

       王寺がスタート 王寺から橋本まで

898年(明治31年)
4月11日:紀和鉄道により、五条駅 - 南和鉄道接続点(現在の大和二見駅) - 橋本駅間が開業

和歌山で始めて鉄道の敷かれた街 橋本

この時点で橋本は紀州より畿内とのつながりが強くなった

1900年(明治33年)
11月25日:橋本駅 - 粉河仮停車場間が延伸開業し、王寺駅 - 和歌山駅間が全通。

1901年(明治34年)
3月29日:名倉駅(現在の高野口駅)が開業。

和歌山駅と橋本駅が繋がったあと、一年後に高野口駅ができました。

高野口という名前にしたのは、例えば歩いて高野山を目指すなら、高野口が近いので、南海電鉄が橋本に入ったことで、実質の高野口は橋本になってしまったのです。


高野登山鉄道が橋本駅と大阪を繋いだのが 1915年(大正4年)3月11日 同年9月1日:橋本駅 - (妻信号所) - (貨)紀ノ川口駅間が開業(砂利採取の支線の駅)

10月10日:汐見橋駅 - 長野駅(現在の河内長野駅)間が600V電化。我孫子前駅・中百舌鳥駅・萩原天神駅が開業この頃から、河内長野まで山を越え歩き、上方に向けて橋本の人は丁稚奉公などに働きに行ったのではないかと思われる。

1959年(昭和34年)12月20日:妻信号所 - 紀ノ川口駅間が廃止。橋本駅 - 紀伊清水駅間の妻信号所が廃止。

紀ノ川橋梁(南海高野線)- 紀伊清水駅・橋本駅間
1924年(大正13年)に現在の高野線が橋本駅から学文路駅まで開業したので、この頃に架橋されたものと考えられる。ガーター橋で右岸(橋本方)にワーレントラス橋がある。構造の違った橋梁が架かっている。

1924年(大正13年)
11月1日 - 南海鉄道の橋本駅 - 紀ノ川口駅間から分岐する形で路線が延伸され、その終着駅として文学路駅が開業。その分岐点には妻信号所が設置される(妻信号所 - 紀ノ川口駅間は1959年に廃止)。
12月25日 - 文学路駅から九度山駅まで路線延伸。途中駅となる。

九度山まで、繋がった!

紀伊清水砂利線


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