昨年(2017年)、杉山先生が何度も、「真土山、畿内」という言葉をおしゃられてたのか 引っかかっていて、いろいろ調べていると真土山は畿内の南端ではなく、 かつらぎ町の兄山(せのやま)が南端だということが「万葉集」で「妹山・背山」に関して 14首詠まれていることからもよくわかります。

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つまり、かつらぎ町の兄山城跡より東側の紀の川より北側は、畿内ということになります。 まさに畿内の境界が奈良県を向いてこの伊都地方を走っているということになります。

 真土山は大きな谷あいを2つ奈良県側から国道24号線を西進するとあり、今の道では急峻と 誤解しそうなのですが、現在の五條市相谷町の河岸段丘沿い、ちょうどJR和歌山線が通っている吉野川(紀の川)沿いの 道を進めば緩やかな勾配で進むことができ、落合川を少し遡上し落合川を渡れば、大和街道にすぐ 出ます。といいますのも、河岸段丘の縁に犬飼山 轉法輪寺があり、東に行きますと二見城の城下町五條新町に連なる道へに繋がざるを得ないのです。

道の変遷と紀の川(吉野川)の蛇行の推移を含め古の人は、真土山をどのように越えっていったのか 興味のあるところです。

 

 畿内という地理的空間と大和国、紀伊国というクニという地理的空間の認識がそれぞれ為政者によって決定されて いったということがわかります。真土山がクニの境界。 クニが中心となったあと、畿内の空間の上では伊都地方は畿内という意識がどこかにあるのかもしれません。

 

これから、「畿内」という言葉の持つ力をどうやって活用するのかを考える必要があります

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