道と橋本 について知っていることをぜひ教えてください

橋本の街をあるくと、紀の川から山の上まで、実にうまく土地を利用している。時代ごとの用水と道が、畿内と橋本を結んできた。なぜここに橋本の街ができたのか、古墳自体の遺構から昭和の歴史まで辿ってみたい。和歌山県内で初めて鉄道が敷かれたのは898年(明治31年)。のちにJR西日本となる紀和鉄道の五条駅、橋本駅間。のちに南海電鉄となる高野登山鉄道が橋下駅と大阪を繋いだのが1915年(大正4年)と、古代の道をなぞるように県庁所在地よりも先に畿内、王寺駅と繋がれた。
 

1.川の道

橋本川と紀ノ川の合流地点河内から天見川をさかのぼり、峠を越えると橋本川。橋本川が紀の川右岸に合流するところが橋本の街だ。橋本川左岸には、須恵器、土師器の出土から古墳の築造年代は5世紀末から6世紀初め頃とされる陵山古墳がある。川を道とした時代、少なくとも5世紀の終わりには橋本に人が住み、畿内や紀の川河口との交流があったことがわかる。

 

 

 

2.古代の街道

改めて地図に並べると、京都、奈良、明日香、熊野の本宮は南北に一直線並ぶ。古代、これは偶然だったのだろうか。吉野と橋本はこの南北の線を挟むように、現実に歩くことのできる道の辺にで成り立った土地。古代から人の暮らしの道が山を踏み分けていたところに、平安期、819(弘仁10)年ごろ、空海が高野山を開山。熊野詣の流行などで、街道が形づられてゆく。

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3.中世と近世の街道

高野山の僧、応其上人が秀吉に塩市の独占的な権利を認めさせる。塩は近世を通じて橋本の経済となる。20軒を超えるの塩問屋と材木問屋などが栄えた。現在、近世に建築された問屋の建築遺構が数棟残っている。

 

 

4.鉄道の時代

JR和歌山線を渡る南海高野線1898年(明治31年)、現在のJR和歌山線にあたる紀和鉄道が橋本駅間を開業。王寺駅で、生駒線や近鉄線に繋がる。1900年(明治33年)橋本駅と和歌山駅間が繋がる。1915年(大正4年)高野登山鉄道が橋下駅と大阪を繋いだ。1924年(大正13年)に現在の高野線が橋本駅から学文路駅開業。線路が紀ノ川を渡った。現在は橋本川に、開発者のウォーレンの名前の付いた三角形、逆三角形が交互に並ぶウォーレントラス橋。対岸にガーター橋(桁橋)で左岸に渡っている。味噌屋さんのお話だと「前はアーチ橋だったよ」と。同年、文学路駅から九度山駅まで延伸。大正時代までに現在までの鉄道の原型ができている。

鉄道が紀ノ川を渡る前、1915年の橋本駅開業の年に貨物の紀ノ川口駅が開業している。妻に信号所があり、そこから分岐して鉄道がしかれた。紀ノ川から砂利を採取したり、吉野杉、高野杉の運び出しに使われたいたといわれ、1959年(昭和34年)に廃止され、現在は道路として名残がある。

 

 

 

5.車のための道路

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6.歩く道、走る道

河内から高野に向かう北から南へと新しい道ができた。昔の人達も道を道具を使い足を使い道を作ってきたのでしょう。ちょうど、御幸辻駅から国道371号線を南に向かう道ができました。歩道の幅も4m。金剛・生駒・紀泉国定公園からトレイルランで降りてきて走っている人もいらっしゃる。ジョギングしている人も。歩いている人も。坂を上って坂を下る。上って来た道を振り返ると和泉山脈が見える。坂を下ると、大峯奥駈道へ、吉野山への道に高野山への参詣の道に繋がる神聖な領域に入る境界に向かう気持ちのいい希望の風景が見えてきます。新しい道の左にも右にも同じ場所に向かう昔の道があるのを感じながら坂を下って行く道は橋本の新しい名所になりました。

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