二ノ丸(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • 本丸につながる主要な曲輪に由来する

  • 二ノ丸の東側は近世に武具庫があり、それ以前の近世初期には樹林寺があったとも伝えられる。

  • 現在の二ノ丸入口から南北方向へ延びる主要な園路は、残っていた石積みや高い段を均して整地したのちに敷設された。

  • 昭和9年(1934)に高遠出身の眼科医の内田孝蔵の寄付により「天下第一桜」碑が建てられた。石は鉾持の山から運ばれたとされる。

  • 昭和11年(1936)に高遠閣が建設された。

  • 主要な園路の東側の敷地では、戦中から戦後の昭和24年(1949)頃まで、食料増産のため麦畑として利用されていた。この麦畑の跡地に植樹された桜は開花がやや早いとされる。

  • 昭和24年(1949)に無字の碑が建てられた。戦後には、碑の周囲が桜の苗圃となって苗が育てられていた時期があった。コヒガンザクラの苗は、昭和48年(1973)から高遠勝間の秋山氏が育苗するようになった。

  • 昭和35年(1960)に荻原井泉水の句碑が建てられた。句は「花を 花に来て 花の中に坐り」と詠まれている。三峰川水系県立自然公園指定の記念としての建立でもあった。

  • 藩制時代の絵図によれば、三ノ丸から二ノ丸への入口には桝形の外側に冠木門と内側に櫓門があり、木橋が架けられていた。現在は土橋となっている。この土橋の三ノ丸側橋詰の堀の下流側にある桜は、昭和50年(1975)頃、植樹されたものと考えられている。

  • 昭和35年(1960)のコヒガンザクラ樹林の長野県天然記念物指定、昭和48年(1973)の国史跡指定により公園内の美観が重視されるようになり、昭和期になって二ノ丸に出店していた飲食店は昭和30年代頃に立ち退き、露店のみが営業するようになった。当時の飲食店には、最盛期で50人ほどの高遠芸者がいたと言われている。公園に残った最後の高遠芸者は紅葉軒のキミさんであった。

 

二ノ丸東辺の土塁跡

明治期には本丸にあったとされる石灯籠

荻原井泉水の句碑

夜の天下第一桜の碑

二ノ丸入口の昭和50年頃に植樹された桜

夜の二ノ丸入口

 

【木の下蔭】
二ノ丸内東の方今の武具藏は樹林寺の舊地と云ふ説あれども不詳是も稻荷山の部に記す