高遠町(現伊那市高遠町)に明治2(1869)年に生まれた。                                       伊沢修二の弟で、警視総監・貴族院議員・台湾総督・東京市長・枢密顧問院などを務めた政治家。

 

歴史

父は、高遠藩士・祐筆・画家である勝三郎文谷。母は、多計。                                    兄修二とは、年が18離れていて修二が24歳で愛知県師範学校長に就任時に名古屋に引取られ、付属小学校へ入学したが、兄修二が渡米したので高遠へ帰り、進徳小学校にて学ぶ。                                                                                                                明治14(1881)年、兄修二アメリカから帰国により校長を務める東京師範学校(現・筑波大学旧制前進校の一校)へ入学。次いで慶應義塾に入り19歳で卒業し大阪第三中学校に入学するまでの間、兄修二の元で勉学に励む。