勘助曲輪(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • 地名の由来は、山本勘助高遠城築城の奉行であったと伝えられることから。

  • 高遠城の鎮守の稲荷の一つがあったとされる。

  • 勘介曲輪の表記も見える。築城工事を指図した際に、現場事務所として機能していたとされる。

  • 人質曲輪の別称も記録されている。籠城の際、人質がここで自害したから。桃屋敷、桃平の別名もある。桃が数十株植えられて、桜花とともに美しく咲いていたという記事もある。城内に果樹が植えられたのは、籠城時の食糧として期待されていたともされる。

 

【写真解説】

  • 大正4年(1915)には既に勘助曲輪は運動場として利用されていた記録がある。その後、大正14年(1925)と昭和26年(1951)頃、運動場造成が行われたとされる。昭和26年の造成は、高遠高校のグラウンド整備事業として位置づけられ、県から進駐軍の払い下げのブルトーザーが支給されたが、オペレーターがおらず操作ができなかった。そのため造成は失業対策事業(ニコヨン)によった。この二次に及ぶ造成で金山坂から続く尾根が削平され、鍛冶堀が埋められ、勘助曲輪は三ノ丸下部の水準に接続され均され、9454m2の面積のグラウンドとして一体化した。
  • 失業対策事業としての工事にあたっては、当時の黒河内義夫町長は、官房長官の増田甲子七とその秘書の辰野町出身の矢彦沢の力添えがあったと述懐している。
  • 廃藩置県により勘助曲輪が国所有地となり、公園化やグラウンド使用にあたって、国と長野県や高遠町の間で所有や用途をめぐり長年にわたり問題となっていた。昭和35年(1960)に学校組合から支出された約42万円により、高遠町から国に弁償が支払われ、学校用地としての用途が決定し、高遠町から長野県に土地が寄付され、土地をめぐる問題が解決された。その後、昭和59年(1984)までグラウンドとして利用されていたが、2016年現在では大型バスが駐車可能な駐車場となっている。
  • 駐車場の砕石は、発掘調査により厚さ20-35㎝であることが確かめられている。現在は若干の不陸が生じ、水たまりも現れている。水たまりは轍のようでもあるが、かつての堀の凹みが地表に現れている可能性もある。

勘助曲輪付近の駐車場と水たまり

 

【参考】
史跡高遠城址試掘調査/高遠城跡二ノ丸・三ノ丸ほか/高遠町教育委員会/2004年

 

【木の下蔭】
當城の鎮守稲荷三社所謂勘助曲輪笹曲輪厩の三所なり追々命あつて年々神威を増し愛度宮居なり