南曲輪 について知っていることをぜひ教えてください
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高遠城の南にある曲輪から。婦人寮や離れ座敷があったとされる。
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幕末から明治にかけての絵図には、南曲輪に「御南茶ヤ」や「御庭」とする記載が見られ、庭石や池泉の描き込みもあり、この時期は庭園として利用されたと考えられる。また、江戸末期に整備された月蔵井は、この庭に水を引き込む機能を有していたとも伝えられている。
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明治30年(1897)に、日清戦争の戦死者のための靖国招魂碑が建てられた。庭園遺構は放棄され荒れていたが、碑の設置に合わせ南曲輪が削平され、整備されたと言われる。その後の日露戦争や太平洋戦争の戦死者も祀られている。戦後、昭和23年(1948)には進駐軍の撤去命令を回避するため、同じ位置に倒され埋められたが、昭和28年(1953)には掘り出され再び建てられた。これに先立ち、靖国招魂碑の手前にあった鳥居は長藤板山の殿宮神社入口に移設されている。
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池であったところに植えられた桜は、土壌中にも湿気があり、あまり良好に育っていないと言われる。
【参考】
高遠城の庭園/佐々木邦博,大場久美子/2008/日本庭園学会誌